自分の中の見えない自分、それは「我」。ブリューゲルの「盲人の寓話」
目の働きは自分のことを考える時とても参考になります。そこで今日は目と自分を並べてみることにしました。
目は見るための感覚器官です。学校で教わっているので、このことについてはみなさん百も承知のはずです。
私たちは目で見ています。
ところが感覚器官の働きそのものというのは意識できないため理解が難しく「目のことぐらい知っている」というのですが、実はほとんどの方が誤解をしているというのが現状です。
「目で見る」と言う時、目と言う器官が何をしているかというと、見ていないのです。
目は外からの光を「通す」ことに専念しています。それ以外のことをしてはいけないのです。
目は「無」になっているのです。
光をたくさん通せば通すほど目は優れているのです。
ここのところをしっかり整理したいと思います。
「目が見る」はおかしいと気づかれると思います。もし目が見たら、目の「我」が出てきて、というより出しゃばって、それによって光は遮られて通らず、外は見えなくなってしまうのです。「無」になっているときの真反対なことが起こってしまいます。
この状態は目の機能に異常が生じている状態ですから病気です。白内障と言うのは、目が「我」を持ち始めたから起こる病気なのです。もちろん今日の医学では白内障のことを、「我」によって目が不透明になり光が通らなくなった病気とは言いません。
目は見るための器官というのが一般的な理解ですが、目は光を通す器官と言い換えなければ、目本来の働きを理解したことにはならないのです。
さて、つぎは自分です。
自分というのは私たちの中で何をしているのでしょう。
先ほどの目のことを自分にオーバーラップさせてみると、自分というのは外のことを通す器官と考えられそうです。
自分は、耳慣れない言い方かもしれませんが、やはり感覚器官なのです。とはいっても、肉体的に形を持つ感覚器官というよりも感覚能力といってもいいのかもしれません。
シュタイナーは感覚について説明する時に、自分感覚をはっきりと一つの感覚と認め、自分を一つの感覚能力とみなしていました。
この自分感覚ですが、何をするかというと、外にいる相手の人、目の前にいる相手の人、人というより「存在」を通すのです。目の前にいる人間の存在をです。目の前の存在は自分という感覚器官を通して私たちの中にハイツてくるのです。
自分は透明になればなるほど相手がよくわかってくるという仕組みです。
もし自分という感覚の中に「我」が出てきたら、目の時の白内障のように、通りを遮ってしまうので、その時相手は私たちの中で入ってくることはなく、従って映ることもないのです。ましてや理解にまで及ぶことはありません。
ここが今日皆さんと確認したかったところなのです。
東洋思想は「無私」と言う言い方をして、このところをちゃんと抑えていたように思います。自分がなくなればなくなるほど目の前の存在がよく映ると言うことをです。「無私」は「自分をなくすこと」というふうに理解されることが多いようですが、そうではなく「感覚器官である自分を透明にする」と言うことなのです。透明と言わずに無くすといったのです。ここでの話の流れで言えば「無我」といったほうが相応しいかもしれません。
西洋の考え方の中には中世までは、例えばエックハルトには似たような考えがみられます。しかしルネッサンス以降になると相手の存在への関心は薄らいで行ってしまいます。
西洋的な世界の中で自分は「我」のことです。「我」は感覚器官にとっては大敵です。自分の中で「我」が肥大した結果、自分は「自己主張をする器官」に成り下がってしまいました。
目のときは白内障という美容名が付けられていました。自分のときはどういう病名がいいのでしよう。
西洋社会では、自分といえば「我」のことなのです。「我」が感覚器官である自分にとって変わります。そうなってはもう相手の存在など霞んでしまいます。「我」が強くなれば、相手など全く見えていないと言えるのです。
「我」をしっかり持つことが自分の存在にしっかり気づくこととなってしまいました。簡単にいうと、自分を感じていれはそれでいいという世界です。
私たちは「我」をどのように感じ取るのかという疑問がここで生じるはずです。そのための感覚器官はあるのかどうかということですが、ないのです。これが西洋が近世に入ってか抱えることになった大事件なのです。
新約聖書のマタイ福音書の中に、盲人が盲人を引率してみんな穴に落ちてしまうという話があります(15:14)。ピーター・ブリューゲルが1568年にこの題材で描いた「盲人の寓話」という絵は、「我」の行き着くとこを示唆しているようで興味深いものです。
西洋は自分を透明にする代わりに、「我」の中に閉じ込められてしまった、ということです。
西洋的自分にあっては、相手の存在が私たちの中に入ってきません。西洋的に見ればいないのかもしれませんが、現実には相手はいるわけです。しかしそれを感じることはできなくなってしまったのです。相手の存在を感じる代わりに登場したのは、「相手を私たちの考えによってコメントする」ことでした。相手は自分の都合のいいように解釈してしまえばいいということです。
ドイツで生活していると色々な機会でディスカッションになります。本来は参加している人たちのお互いの考え、意見を聞く場なのですが、現実は違います。自分の意見を言うことが主で、ほとんど相手の言っていることを聞こうとはしません。何年この国で生活しても、ディスカッションのこの姿勢になれることはなく、未だにこれだけは苦手です。というより、青筋を立てて自分の考えを熱弁する姿は今でも滑稽以外の何物でもないのです。いつもブリューゲルの「盲人の寓話」を思い出してしまうのです。