グレン・グールドと俳句
グールドについては言い尽くされているので、ここで私が言おうとしていることもすでにどこかで誰かが言っているかもしれません。
私が書きたいことは、グールドは俳句にとても近い人だということです。
俳句は今世界的にブームで、英語で俳句どころか、私たちに馴染みのない言葉で捻られた俳句というのも珍しいものではなくなっています。
ところが俳句とは言っても、私は外国語としては英語とドイツ語の俳句しか読めませんが、17の音節で詩を書いているだけというものも多く、俳句からは遠いいものを感じています。このところを、外国語で俳句をやっている人たちにいうと傷つけてしまうので、大きな声では言えないのですが、やはり事実ですから、言っておきます。
俳句は日本文化を集約しているところがあって、そこを通らないと俳句の精神にたどり着かないのです。では、どこが、どういうところが日本文化なのかということですが、説明しないことです。
西洋は説明と言い訳が文化の中軸ですから俳句的に説明なしの世界で生きることは不可能です。日本には俳句の他に和歌もあって、和歌の方は自分が中心にきて、説明的なところがあるので、私は西洋人には和歌の方がずっと相応しいものだと思うのですが、困ったことに彼らは俳句がこよなく好きなのです。もしかしたら説明しないことへの憧れではないかと思っています。
西洋と東洋、特に日本というのはそう簡単に出会うことはできないもので、私などはもう30年以上この問題で頭を悩ませているのですが未だに解決の糸口すら見つかっていないほどです。西洋的世界は彼らの持っている悪い癖が違う文との出会いを妨げています。一つは自分の考えで相手を整理してしまうことです。相手を理解するとは自分で自分の都合のいいように説明することとは違うものです。もう一つは、すぐに自分が正しいという立場に立ってしまいますから、自分で作った俳句にすぐに満足してしまうことです。もちろん日本にも責任の一端はあります。西洋を崇めすぎた反省か始まってほしいものです。
私がグールドに着目するのは彼が西洋という枠をこえたところがあると思っているからです。
彼を有名にしたのはバッハの、それまで弾く人がいなかったゴールドベルク変奏曲の録音です。グールド以降ほとんどのピアニストがこの曲を弾くようになっています。グールドの演奏は型破りです。だからと言って奇をてらったものではなく、それまでヨーロッパ人が知らなかったものだったのかもしれません。説明とか解釈からではないところから、まっすぐに音楽に向かっています。あまりに生々しいバッハで当時は気狂い扱いすらされたほどです。しかしレコードの売り上げは上々で全世界でグールドのゴールドベルク変奏曲は向かい入れられたのです。今日でも彼への評価は二分していますが、当時は今以上に極端に意見が分かれていました。
先日グールドの弾くシベリウスとブラームスを聞きました。いつもながらにとても生々しい演奏で、改めてグールドの偉大さを見直してしまいました。その時の生々しさが、説明抜きの音楽で今を生きているグールドと俳句を結びつけたのでした。
俳句は生々しいものです。こんなものは世界に二つとありません。俳句の面白さは説明があってはならず、しかも今を詠むことで、そのために季語があるのだと考えています。厄介なハードルだと季語を恨むこともありますが、そこを越えなければならず、そこを越えて流れている時間の中で今を浮かび上がらせるのが俳句です。
説明しない今。この独特な自分と時間との関わりがグールドの演奏にもあるように思えて仕方がないのです。
西洋というのか、西洋の得意な知性というのか、それは過去の出来事の整理に追われていますから、俳句がそこにやってきても深く染み付いたくせですから説明型の俳句になってしまいます。そんなのは俳句と形は似ていても中身は俳句に似ても似つかないものです。
グールドの奇行?は有名です。彼の独特な生活習慣は天才ということで社会的には認められていますが、やはり奇行です。夏でもコートを着て帽子をかぶりマフラーを首に巻いて手袋をしているのです。どこを取っても普通ではなく、精神病患者とみている人もいるくらいです。しかし西洋人が西洋を越えるためには、大きな壁があるので彼くらいの奇行が普通にならないとうまく越えられないのではないか、そんな気がするのです。普通の西洋人のままで俳句に向かっても、西洋文化の延長に俳句はないですから、そこには、悲しいかな、説明に走り今という生々しさは生まれてこないのです。だからと言って私は西洋が俳句に夢中になっていることを悪いことだとは思っていません。それどころか俳句が、俳句に近づこうとすることが、彼らの持っている壁を壊す大きな力になってくれるかもしれないと期待しているのです。これは人類の未来にとって祝福すべきことなのかもしれません。