シューベルトの未完成交響曲 その一

2016年8月28日

久しぶりの投稿はやはりシューベルトです。

私はこの作曲家から実にたくさんの示唆を受けたからです。

この作曲家のことを考えることで、いろいろな不思議に気付かされたからです。

 

その一つは東洋と西洋の問題です。シューベルトは歴史上西洋人として一番東洋を知っていた人です。彼が生きた当時は情報的には今日とは比べ物にならないほど東洋のことは知られていませんでした。しかしそれでも私は、旅行と様々な情報を通してシューベルトの何百倍も知っている現代人とは比べられない深さで彼は東洋に通じていたと信じています。

二つ目は、今日取り上げている未完成交響曲に如実に表れている、後ろ姿で語る音楽です。西洋の音楽はルネッサンス以降、あるいはグレゴリオ聖歌以降の音楽は、現代音楽と呼ばれているものに至るまで全て、マーラーを除いて、こちらを向いている音楽です。こちらを向いて何か言っているのです。表情をつけ、意見を言いながらパントマイムをしています。シューベルトの未完成は、西洋で生まれた音楽としては極めて珍しく、こちらを向くことなく後ろ姿で音楽をしているのです。が、西洋音楽の歴史の中を根強く生きてきた習慣上、こちらを向いて音楽をすることしか考えられないので、演奏される段になるとシューベルトの未完成も、せっかく後ろ向きの音楽なのに、力づくでこちらを向かせてしまいます。残念ですが致し方のないところです。

三番目は伴奏という考え方です。シューベルトが600曲以上の歌を作っていることはよく知られています。そのために歌曲の王というあだ名が付いているわけですが、彼の歌に就て語るとき、ほとんどが歌のメロディーを取り上げますが、私は彼があの膨大な数の歌を作ることができた大切な要因は、彼が伴奏を作る才能に恵まれていたからだと思っています。彼の人生観の中に自分のことを主張するよりも他人を伴奏をすることが強くあったのだと考えるのです。歌の伴奏はそんなものとは関係ないと考える人もいると思いますが、私はあえて、一見関係がないように思われる二つですが深く結びついているものですと言います。音楽を作曲技術で作っている人逹にとっては無関係なのでしょうが、音楽がその人の存在から生まれてくるような場合、全ては深いところでつながっているのです。

 

 

 

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