シューベルトの歌、名翻訳
私はドイツ語の深いところをシューベルトの歌で学びました。シューベルトの歌を歌うことがドイツ語の勉強には欠かせないものだったのです。
発音、言葉の持つメロディーは、文法や読解の方にどうしても重きを置きやすい外国語の勉強ですが、本当はとても大切なものです。けっしてないがしろにしてはいけないのですが、ここを勉強するための手段は、残念ながら今の所あまり知られていません。私がシューベルトの歌が好きだったことが幸いして、私のドイツ語はシューベルトの歌からこの学びにくい部分を鍛えてもらえたのです。
シューベルトによって歌に変わった詩は、ただ言葉として読んでいる詩の何倍も詩との結び付きを深めてくれました。詩は理解よりも言葉の響きから何かを感じなければならないものです。しかし外国語を感じるのはほとんど不可能です。言葉で感じられるのは母国語だけですから、外国語を感じられるようにするには想像を絶する、とんでもないことをしなければならないわけで、私の場合はそれがシューベルトの歌を歌うことでした。シューベルトの歌は、音楽として優れているだけでなく、言葉の学習にとってとんでもないことに属するものなのです。
ゲーテ、シラー、ノヴァーリス、というドイツを代表する詩人の詩は、ドイツ語が母国語でないものにとっては意味を汲み取るのが精一杯で、詩情、詩の中に込められている意志にまでたどり着くことは容易ではなく、この容易でないところを私はシューベルトの歌に助けられたのでした。シューベルトを歌っているとき、詩の言葉の中に音楽が染み込んできます。音楽によって詩の言葉はそれまでのものとは別のものに変わっています。
音楽に生まれ変わった詩の言葉は、特にシューベルトの歌の場合は他の作曲家の歌に比べて、詩が音楽に翻訳されたものと言ってよい、一等品です。詩は他の言葉に翻訳され得ないものです。詩を愛する人ならこのことは百も承知のことです。ある言葉で書かれた詩を他の言葉に移し替えた途端、おいしいところが失われてしまいます。しかしシューベルトの手にかかった翻訳は、言葉同士の翻訳のまどろっこしさを払拭して、輝き始めるのです。
シューベルトの歌は、ただ詩が綺麗なメロディーに乗って歌われるという平坦な作業ではなく、言葉の音楽への翻訳です。しかも名訳です。音楽と言葉という似ていながらもそもそも別のものが、歌の世界で幸せをかみしめながら出会うのです
音楽で言葉を補佐できたのはシューベルトの大変な才能です。言葉が主で音楽が補っているのです。大抵は逆のことになってしまいます。詩の言葉に音楽を上乗せしてしまいます。少しキツ言い方になりますが、詩の言葉に音楽というペンキを塗ってしまうのです。音楽が暴力的に関わってしまいます。これでは詩の言葉を音楽に翻訳したことにはならないのです。
世界のどこかで今日もシューベルトの冬の旅が歌われているでしょう。
詩人、ウィルヘルム・ミュラーの詩をその国の言葉に翻訳して朗読されたと想像してみてください。そこで、どんなに朗読が素晴らしくても、渦巻くような感動は生まれないでしょう。しかしシューベルトの音楽に翻訳された冬の旅はどうでしょう。この素晴らしい翻訳は聞き手の心に訴え、コンコンと湧き出ずる感動を呼ぶものなのです。
私はこの感動でドイツ語を学んだのでした。