朝は金、ゴールドを運んでくる、一日の不思議
この諺は朝をたたえたドイツ語の諺で、詩情がありもともと諺があまり好きでない私でもうっとり朝の静謐さに浸ってしまいます。
ドイツ語では「Morgenstunde hat Gold im Mund」と言います。
爽やかな朝のひと時、特に天気の良い日は、一日のうちでも特別な時間帯で、いい仕事ができそうな気分になるのは私だけではないようです。ゲーテが晩年ファウストの第二部を書きあげた時、書いたとは言っても口述して秘書が文字にしたのですが、仕事はお昼までだったと読んだことがあります。作曲家のシューベルトも午前中に作曲して、午後からは散歩に出たり、夜は友達と音楽したり音楽会に出向いたり、あるいはいっぱい飲みに出かけたりしていたそうで、作曲は専ら朝が運んでくるゴールドから直感をもらってやっていたのでしょう。午前中だけで8曲の歌曲を書いた日もあるということです。
ただ直感の源は何かと考えてみるともう少し深いところに話が行きそうです。朝のすがすがしさはもちろんなのですが、大事なのはそれよりも、どちらかというと、眠りから覚めたとき、余韻として残っている「眠っている間の体験」のような気がするのです。睡眠中に何が起こっているのか、私たちは知らないわけです。いつの日か解明された時には、もしかすると革命的なことが精神生活を理解する上で起こるかもしれないのです。きっと起こります。しかし今のところ寝ている間のことは謎です。
朝、目覚めた瞬間、時々ですが、私はなんでも知っているような気がすることがあります。とはいっても、誰かに面倒臭いことを質問されても、それに答えることはできないのですが、それとは別のところでなんでも知っているような気がするのです。どこにも根拠がないのですが、ありとあらゆることを知っているような気がするのです。
ところが一日が終わる夜になると、こんどは全く逆で、私は何も知らない、まるで小さな一点にまで押しつぶされたようなつまらない人間に見えてしまうことがほとんどです。その日、楽しいことがたくさんあっても、つまらないことばかりの連続であっても、基本的には変わりがなく、夜はつまらない惨めな粒のような人間に見えてしまうのです。
一日は時間の量からいうと、24時間からなっています。そして構成的には朝から昼になりそして夜が来るのです。しかし私には、一日という単位はただ時間が流れ過ぎ去ってゆくだけではなく、何か別の意味があるように思えてならないのです。特に起きている時と寝ている時の違いを考えるとまるで手袋の表と裏のような、一つであり別のものです。私が目覚めの時に感じる自分と夜寝る前に感じる自分の違いも同じ一日の中で起こっていることなのです。
ゲーテは昼を過ぎて午後になるともうインスピレーションが湧かなかったので、仕事は午前中で切り上げたそうです。もしかすると夜の体験が薄れて行ってしまったからではないのでしょうか。シューベルトには興味深い話があります。真夜中に目が覚めて、ろうそくの薄暗い光の中でピアノ五重奏の「ます」を書いたという言うことが言われていますが、単なる逸話ではなくその時不注意にもこぼしてしまったインクのシミが楽譜に残っているのです。真っ暗な夜、薄暗いローソクの光の中で、あの明るい日差しの中できらきら光る「ます」のメロディーが思い浮かんだのです。
寝ている間の体験は、夜というイメージとは裏腹にとても明るいもので、その体験は光に溢れているものなのかもしれません。