カズオ・イシグロ、「日の名残り」。

2017年10月7日

日の名残り、The remains of the day、をはじめて読んだ時、これは源氏物語に通じているものだと直感しました。
この本に出会ったきっかけは、「わたしの英語を焼き直したい」と思い立った時です。お隣に住んでいる女性で、長年英語、フランス語、スペイン語の通訳と翻訳をされていた方に、「一緒にヘミングウェイを読んでくださいませんか」とお願いした時にさかのぼります。今から四年前の話です。その方は、定年退職されて五年目で、「ヨーロッパの言葉でない言葉を学びたい」と思い立ち日本語を学んでいるところで、そのことを偶然に聞いて知って、「英語と日本語の交換授業をしましょう」と提案してみたのです。それから一週間に二時間の交換授業がはじまりました。最初は私の希望通り、ヘミングウェイを読んでいたのですが(私の方からは英訳がついた子ども向けの古事記の絵本でした)、「彼の文章は省略が多すぎるので英語の勉強には相応しくないからカズオ・イシグロの本を持ってきました」と言って日の名残りを机の上にさしだしたのです。「決して易しくはないですが、英語の文章が綺麗で、繊細で、しかも複雑なことがとても素晴らしい英語で書かれています」とさっさとヘミングウェイを取り下げてしまったのです。

カズオ・イシグロの文章を英語で読む、これは相当の語学力が必要です。私が独力でこの本の英語に接していても、もちろんゆっくりしか読めませんが、読み続けることはできなかったでしょう。英語に精通した助っ人に感謝しています。私の助っ人は助っ人で、ゆっくり読むことで発見したものがあるようで私と一緒に感動しています。
遅々としたテンポは私からのお願いでした。できるだけ深く一文を読解したかったからでした。一字一字、句読点の取り方なども含めて、納得の行くまで文章を読み込んでみたかったのです。カズオ・イシグロの日の名残りの文章はそのためには最適でした。

私たちの交換授業が一年経った時、日本で橋本武という国語の先生が、灘中学校で三年間、中勘助の「銀の匙」を教材にしていたことを知りました。しかも遅々とした授業で、深く突っ込みながら、きめ細かく読み込んで行く授業方法だったようです。それが今の進学学校灘校の基礎を作ったことは卒業生たちの発言からはっきりしています。

カズオ・イシグロの文章はゆっくり読むべきものです。ゆっくり読むと実に味わい深い文章です。

ドイツでこの本が評判にならなかったのは不思議です。執事という制度がないこともあるのでしょうが、ひとえに翻訳のせいだと信じています。ドイツ語の訳は悲惨です。執事の発想が言葉にならないのです。日本語訳はそれから比べると出来過ぎぐらいの名訳です。テンポが少しだけ早すぎるところがあえていえば難点と言えるかもしれませんが、直訳を避けているところが素晴らしく、雰囲気までもがうまく訳されています。

ストーリーがどういうテンポと広がりで繋がって行くのか、これはどうでもいいことではなく、英語でこの本を読んだ時に感情の機微の正確な描写、執事と主人の間の時間の流れに感動したのです。そしてすぐに、「源氏物語と同じようだ」と感じたことがこの本を読み続けられる原動力になっています。

カズオ・イシグロの本の中では「日の名残り」が彼の持ち味が遺憾なく発揮されているものだと信じています。英国社会特有の執事の話です。ご主人様に仕える人のことを書いているのではなく、仕える立場を全うする人間の眼に映る世界がテーマです。しかし心理学的説明はなく、生々しい感情の動きが正確に描写されています。自分であることより仕える立場を優先したらどんな人生が展開するのでしょうか。そこには正しいとか間違っているとかが入り込む余地はあるのでしょうか。仕える人の自由はどこに見出されるのでしょうか。あるいはそこにそもそも自由はあるのでしょうか。自らの感情を執拗なまでに抑えて生きてゆくのです。執事は奴隷ではないですから、自分で判断する空間はあるのですが、自分で判断しながら、同時に仕えている立場という成立しないものを成立させるのが執事と言えるのかもしれません。カズオ・イシグロは淡々と語り続けます。深い哲学に血が通うのがこの本です。
この執事の立場に目をつけて、そこでも自由の解決の糸口を見つけられるのか、イシグロは全力投球です。しかしそこには読者を誘い込むような時間が流れるのです。私はここが彼のユーモアだと信じています。私には、いい本とかいう評価ではなく、ありがたい本なのです。

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