方言と標準語

2017年10月9日

東京生まれの私は方言を持っている人に少々コンプレックスを感じています。
標準語の日本語しか喋れず、現在の私の生活に使う言葉、ドイツ語も標準語しか喋れませんから、全く方言から見放された人生なんです。
若い頃に、新聞記者になった友人が青森支局に勤ていて、訪ねがてら津軽を旅行しました。太宰治の生家、斜陽館に行くために青森の駅で電車を待っていた時、周りに方言が聞こえていましたが、訛っていたり、アクセントが違う程度で、「方言でも理解できるんだ」と思っていたのですが、乗った津軽本線で年配の人が使う津軽弁に目から鱗。打ちひしがれた思いがしたのを覚えています。何を話しているのか「全く」わかりませんでした。正真正銘の方言というのがあるんだ、同じ日本語なのに・・。あんな風に話せるんだ、いや、話してみたい。「標準語しか話せない自分」を強烈に感じた時でした。
青森の街に出て津軽弁で書かれた本を探しに本屋に入り、そこでソノシート(プラスチック製のペラペラなレコード)のついた青森の人の詩集を見つけたのです。そのソノシートには本の中の詩が、一つだけでしたが収められていたのです。ローカルな詩人なのでしょう、東京では聞いたことのない名前でしたが、即買いました。
旅行が終わって、家に着くと、何はさておきリュックサックから本を取り出し、ソノシートをレコードプレーヤーにかけ耳を傾けました。文字で詩を読む限り、わからないという印象は持ちませんでした。聞く方がずっと距離を感じました。とはいえ、旅行の間中音で聞ける瞬間をずっと思い描いていたので、分かる分からないではなくワクワクの連続でした。聞きながら、心を震わせながら赤ちゃんがするように口真似をしていました。そして毎日毎日、覚えるまで、何度も何度も聞いたのです。高木恭造さんご自身が読まれていたと記憶しています。
   カカゴトプタライデオモテサデハレバマンドロダーオツキサマダー
   フイダアドノヤブコイデ・・・
たった一つの詩しか読まれていなかったのですが、これで自分も方言を音にできると、大満足でした。

現代社会は方言がどんど失われ、その反面標準語が幅を利かせています。そこでは変な現象がみられます。方言を持つ人は標準語をどんなに上手に使っても、方言の持つ訛りが出てしまうものです。そんな時、東京の人に「お国はどちらですか」と聞かれてしまい、標準語がちゃんと喋れないというコンプレックスが生まれるのです。私の持つコンプレックスとは逆のパターンです。しかし幅を利かせている標準語というのは、よくよく考えれば人工的に作られた言葉です。言葉としてはそれほど価値のあるものではない、と言ってもいいように思えるのです。それなのに偉そうに幅を利かせているのです。私が個人的に方言の方に肩入れしているからというのではなく、標準語化した日本語って実は抽象的な世界に放り出されてしまった根無し草なのではないのか、私にはどうしてもそう思えてならないのです。

ちなみに高木恭造さんの詩を(カタカナで書いたところ)を標準語に直すとどうなるのでしょう。
    妻をひっぱだいた勢いで外に出たらウルウルした満月だった
こんな感じでしょう。意味は伝わっています。しかし言葉のダイナミックな味わいといったらいいのか「何か」が消えてしまいます。私にはできないですが、他の方言に置き換えたら、あの詩が持っている臨場感は、標準語以上に伝わるのかもしれません。

方言でしか言い表せない何か、そしてその何かは標準語にはない何か。
標準語にすると、最悪の場合説明になっているだけということになりかねないのです。
詩というのは遊び心からしか生まれないものです。リズムの遊びなんです。言葉の響きを楽しんでいるものなのです。言葉のメロディーを歌っているんです。
古代にまで遡ると言葉はリズムに支えられた韻文で、しかも繰り返しが重要で、そこからイメージ深まって理解と言えるものにたどり着くのです。時代が私たちに近づくに従って増えてゆく散文。その散文が得意とする説明による理解とは全く別の世界があったのです。方言の中にはもしかするとそういう古代人が持っていたのに共通するものが生き続けているのかもしれません。津軽本線で聞いたのはそんな何かでした。

標準語は散文的です。その標準語に直したらスマートになりますが、方言が得意とする土着的な具体性、暗黙性からは遠ざかってしまいます。方言は具体的、標準語は抽象的。方言は無口、標準語は饒舌。この違いです。方言は具体的なものなのですが、その土地に育った人の間で暗黙の内に分かり合えるもので、その土地を離れると威力を発揮しなくなってしまうのです。それにひきかえ標準語というのは根無し草ですが、土地に縛られることなく理解できる便利な言葉です。土着ではなく垢抜けていて、暗黙ではなく言葉を費やして理路整然としている知的なもので、多くの人によって共有できるという特徴があり、社会を一つにまとめる時はとても都合の良い便利な道具なのです。

方言には小節(こぶし)がつきものです。これが訛りと言われるものです。強いメロディー性、アクセントとなる癖のあるリズム。標準語がことごとく排除しているものです。そのため方言を持つ人が標準語を使うと、方言で培われたリズム、メロディーが目立ってしまうのです。
標準語は偉そうな顔をしていますが、この小節(こぶし)のない、滑らかで、平ぺったいものにすぎないのかもしれないのです。現代社会はテレビなどのメディアの普及で言葉が標準語化しています。もしかしたら、人間も標準語化して、根無し草になって、一つにまとめ易くなってしまったのかもしれません。

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