相手と自分
自分は相手によって随分変わるものです。
相手によって変わる自分は、どういう自分なのでしょうか。
個人主義の人にはそう言う自分、相手次第で変わる自分は軟弱に見えるのでしょうか。
いつも変わらない自分でいること、つまり不動心というのは、実際にはいつも変わっているものです。
抽象的に、論理的に言う時には、動かないということですが、実際には動いていて、しかも動いていないということです。
静と動の様なものです。
静と言うのは止まっていることではないのです。
もちろん動というのは動きまわっていることではないのです。
人間のバランス、そこに静なるものが宿っていますが、そのバランスは動いているから存在するものなのです。
ところで、個人主義の自分はどこに向かっているのでしょうか。
自分自身の中にでしょうか。
一人っきりになることがいいというのでしょうか。
相手は要らないのでしょうか。
なんだか静止した、死んだものの様に見えるのですが・・
人間は相手があって始めて完結していると思います。
男と女のことばかりでなく、相手が必要ということで、相手がいて自分が完結するのです。
自分という相手に働きかける自分と、相手という自分に働きかける相手が必要なのです。
自分を任せられる相手がいる、これは本当に充実した人生です。
やまさと保育園の後藤理事長先生のことは時々書いています。
先生は信じる人でした。信じたものは徹底的に信じ抜きます。
園の30周年の時、先生は私に人形劇で古事記を全宅されました。
うれしさと共に恐ろしさでもってお受けいたしました。
先生のこの凄みは他に類を見ないもので、圧倒されます。
相手がいる、相手から力をもらう、それこそが生きている証拠です。
先生は信じるだけでなく、先生には先生を支える人が必ず現れるという不思議をいつも感じていました。
園長として現役でされている時、田中先生という相棒を得て、後藤先生は完結した人生を得ておられました。
もちろん田中先生も信じる人でしたからお互いにシーソーの様なことができたのです。
このお二人の姿から深い感銘を受けたものです。
尊敬しあい、お違いに言いたいことを思いっきり言いあい、そして完結していました。
それは理解をはるかに超えた何かでした。
相手は、今目の前にいる相手は理解するものではないです。理解の対象ではないのです。
理解など不可能です。
認識という、哲学用語で難しい言葉の真意は、普通理解という風に解釈されていますが、本当はなんなのでしょう。
理解ではない、それだけは確かなようです。
相手を認識するというのは、相手を理解することではないということです。
相手の存在を知ること、相手を信じること、そう言った方が適切な気がします。
相手の中に自分を丸ごと預けられる「勇気」です。
私は人に理解してもらいたいという期待は持ちません。
理解より、私のブログに書く言葉に、読んでいる人がなんらかの共通項を見つけてくれればいいと思っています。
その言葉で、読んだ人の人生に何らかの形で関与できればと願います。
同様に相手の言葉を理解するということもしていません。
理解より、相手の言葉の中にどれだけ私が感じていることがあるか、そこに興味があります。
認識というのは、相手と距離を取り、ポケットに手を入れて斜に構えですることではないでしょう。
認識に必要なのは勇気で、知性ではないということです。
相手に添って生きることであり、相手をバックアップすることであり、よき協力者となることです。
理解というのは、解ったというのは、実に都合のいいものです。
よく見ていると、相手を自分の尺度で測っているに過ぎないのです。
これじゃ相手を支配下に置いているだけです。
一人だけではすることがあまりない様な気がします。
自分と一人っきりでは飛びこんで行くもの、相手がないです。
自分の中に飛び込んだらどうなるのでしょう。
妄想とエゴと虚無くらいしか今は思い付きません。
それはあまり上等なものではない様な気がします。