健康という謎そして罠

2017年12月20日

病気と健康、どういう関係にあるのでしょう。とかく因果関係のあるもののように扱われがちです。あるいは悪いところがないから健康という具合に一緒くたです。

私は健康と病気とはそもそも全く違うものだと考えています。この違いを説明するのが結構難しいのでこの文章を書くことにしました。

病気はわかりやすいというのか、具体的というのか、現実的にあるものです。痛みがあったり、熱があったり、貧血で倒れたりと、見える形で現れます。

ところが健康は具体的な手応えがなく、ぼんやりしていて、さらに見えないものです。しかも空気のようなもので、あって当たり前ですから気付かずに通り過ぎます。

聞くところによると病気につけられている名前は三万以上あるそうです。病気の種類を三万以上に分けたというのは近代科学による医療の成果と見ていいのかもしれませんが、本音を吐くと、病気を無くすのが医療なのか、病名を増やすのが医療なのかと皮肉りたくなります。ともあれ、悲しむべきかな病名は増え続けているそうです。

 

健康は当たり前にあるものと言って見ましたが、一人一人の人間が健康については知っているとも言えそうです。もちろん知っているとは言っても本能的ですから根拠がないわけです。とは言っても健康は個人的なものですから、健康というのは人の数だけあるという風に言っても差し支えのないものです。ざっと七十億の健康があるということになって、今度は三万という病気の数が子供騙しに見えてきます。

健康と病気の比較は数字に遊んでみるとなんとも奇妙な様相を呈すものです。つまりはお互いに比較しても意味がないということに帰結するようです。

 

 

さて健康ですが、昨今は健康が大変なブームになっていて、健康食品、健康飲料、健康のための器具、健康体操、健康な歩き方というようになんでも健康をつけるとありがたかられるのです。健康という名前に社会が酔っているようにも見えます。

またメンタルな方からも、心のバランスが健康には欠かせないとか、明るい気持ちが健康の源とかいう言い方にも健康をターゲットにするようになっていて、健康ブームは底なし沼というか、複雑怪奇な様相を呈しています。

 

病気、病気と言い過ぎると滅入ってきてしまいます。私が病気になった時入院した病院では、患者同士で病気の話は決してしないようにと患者さんたちは医者から諭されていました。私たちは自分の病気について話すのが大好きなのです。

同様に健康健康と言い過ぎるとこれまた意外な落とし穴に落ちることになります。ドイツという国は何かにつけて「健康にいいものだから」と人に勧めます。しかし健康は個人管理のものであるわけで、一般論としての健康なんかないわけですから、他人なんだから放っておかなければならないのに、ズケズケと「健康にいいから」とは言ってくるのです。放っておいてくれというのが正直な感想です。

これは健康にいいですよくらいまでは穏やかですが、強靭な意志が健康を作る、毎日の生活のリズムが大事であるとか、いつも前向きでいることというところにまで来ると、それははっきり押し付けられているようなものを感じ、人間関係にまで影響し兼ねないのです。こうこうすれば健康になるという押し付けは、病気を裏返したようなところがあり、健康な顔をした病気かもしれないと勘ぐってしまいます。

 

病気も程よく付き合えば健康への道が開かれるものです。

健康はいいことなのでどうしても人に勧めたくなりますが、度を越すと押し付け病です。他人に介入するという落とし穴に落ちてしまいます。

 

さてここまで話を進めましたが、まだ健康とはという問いに答えていません。

私が健康と考えているのは、円の中心のようなものです。

円の点は理屈の上では点として存在していますが、実際には見ることはないわけで無いに等しいのです。様々な、時には想像を絶するようなことも起こる人間生活は言って見れば円周のようなものを形成しています。外の世界との交わりで作られ、病気もそこに位置しています。円の円周と円の中心との関係が一筋縄では行かないように、病気と健康の関係も複雑なものにならざるをえないのです。

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