ジャクリーヌ・デュ・プレ
音楽をするための楽器をインストルメント(instrument)と言いますが、そもそもの意味は道具で、職人さんたちが作業に使うものは皆このインストルメントです。
優れた職人さんは道具を知り尽くしていて、道具が体の一部になってしまった観があり、仕事ぶりを見ているとそれだけで良いものが生まれる理由がわかります。宮大工の西岡常一さんが薬師寺の塔の建築の時に職人さんを選ぶのに道具箱の中の鑿(のみ)、鉋(かんな)、鋸(ノコギリ)と言った道具、インストルメントをいの一番に見たと「木に学ぶ」で読んだ時、道具の命を知ることと良い仕事とは切っても切れない縁があることを再確認しました。
音楽での演奏家と楽器も同様で、演奏する人は自分の楽器を知り尽くさなければ良い演奏ができません。しかし最近は楽器を単なる道具に見立てて、楽器演奏をショウ的にパフォーマンスする人が多いのにはびっくりします。
今日はチェロの話です。以前にブログでエマヌエル・フォイアマンのことは紹介しましたが、彼はまさにチェロそのものの人でした。楽器を知りつくし、チェロの命に通じていた人でした。群を抜いた技術を持ちながら、技術に振り回されることがないだけでなく、人間的に衒(てら)いがなく、自然体でさりげなく弾くのです。人間フォイアマンを音の隅々まで感じる、一度聞いたら忘れることがでないその音は印象深いものです。
性格的にも優しい、人思いな人だったそうで、しかも剽軽者(ひょうきんもの)で人を笑わせてばかりいたという心底明るい性格の人と彼を知る人たちは口を揃えて言っています。42才で盲腸の手術の失敗が原因で亡くなった時、突然の死に世界中の音楽ファンが彼を失った悲しみを言葉にしていました。
今日もう一人私がいつも新鮮な思いで聞いている、やはり42才という若さで、30年前に亡くなったイギリスの女性チェリストの話をしたいと思います。28才で病気のため(マルチプル・スクレローゼ、MSと省略して言われています)演奏活動を終え、14年の闘病生活の末なくなりました。
残された録音を聴いていると、名演奏といった一般的な言葉では語り尽くせない、彼女にのみ許された一回性の演奏に出会えるのです。聞けばすぐ彼女の演奏だとわかります。そして何度聞いても新鮮さがなくなることがないのです。
彼女の手にかかると音楽は、言葉は悪いですが「ピチピチしていて本当に生きのいいもの」として生き始めます。繰り返しますがいつも新鮮なのです。その新鮮さの秘訣は、自信をもって言いますが、演奏しているとき彼女が全身全霊で一音一音に出会っていることに尽きます。出会うと言うのはその一音一音に命を吹き込むことです。パフォーマンスではなく、音に向かって素になり弾き込んで曲を歌いあげるのです。彼女の音はいつもチェロが自ら歌っている様でした。
言葉にしてしまえばそれだけのことですが、それだけのことがなかなか出来ないのです。演奏技術が未熟だと音を捉えきれませんし、技術がついてくると技巧に任せて弾いてしまい、やはりしっかり音に出逢えないのです。どちらの演奏にも後味の悪いものが残ります。
生きた音と死んだ音とがあるのです。死んだ音は楽譜に閉じ込められたままでそこから抜け出せない音で、生きた音は楽譜から抜け出して私たちが生きている空間と時間を私たちと一緒に呼吸し、泳いでいます。優れた演奏家は楽器を知り尽くした上で、上手に楽譜から音楽を引き出す術を心得た人達なのです。
ジャクリーヌ・デュ・プレはそんな資質に恵まれたチェロ奏者でした。
彼女のことを友人たちが回顧しながら話しているのを聞きながら、茶目っ気たっぷりな悪戯っ子の彼女に備わった、間抜けな、ノーテンキの自然体という側面が見えてきました。高貴な淑女のようでありジプシー女のような(わたしは野性味と理解しました)ところも持ち合わせていた様です。いつも底抜けに明るく笑っていたので、あだ名は「スマイリー、smiley」、冗談を言いながら周囲を明るくすることを忘れなかった、ユーモアの精神を地で生きた人だった様です。ここからも生きた音が作られていたのでしょう。
それだけでなく、多くの共演者たちが、合奏のときに他の演奏家たちが弾きやすくなるように(気づかれないように)配慮していたことを口々に述べています。彼女と演奏できることの幸せをいつも感じていた様で、最後に「I miss her (彼女がいなくて寂しい、彼女にここにいてほしい)」と言う言葉で涙ぐむように締めくくります。
こんなに人を愛し、人から愛され、音楽を愛し、音楽に愛されたた人が弾くチェロの音です。きっと生きることの素晴らしさを語りかけてくれると思います。人間の高貴さを讃え、人間の無限の可能性を共に感じ、生きていることの幸せに包まれる、パフォーマンスを超えた確かな手応えが彼女の音にはあります。
You Tubeは彼女の生前の友人、知人の音楽家たちが彼女を回顧しながら思い出を語っています。英語ですが、字幕のところをクリックして、活字の英語を頼りに頑張ってください。
Who was Jacquline du Pre? by AllegroFilms