自分、静寂そして私のライアー道

2012年6月14日

自分とか、自意識とか、あるいは自我といわれているものをここではよく取り上げています。

なぜかというと、大切なことだと考えるからです。

でも何故そんなことが大切なのかと聞かれると、言葉に窮してしまいます。

 

自分のことをあれこれと考える時、その人はすこしだけ自分から距離を置いています。

私ってこういう人だったんだ、という言い方は、自分を人、つまり一般的なものとしてとらえています。

自分を一般人の中に並べ替えているのです。

 

これは子どもにはできないです。

これができるようになったというのは大人になった証拠です。

大人への成長プロセスの中に自分はあるのです。

 

自分を感じるというのは一つの能力です。

この能力がながったら、本能的に条件反射的に周囲に対応するでしょう。

人間は魚の様な集団行動しか取れなくなります。

あるいは自動販売機の様に、外が押したものを間違いなく出すだけになってしまいます。

思考とか意思というのはここでいっている自分の中にあるものなのです。

 

自分生成のプロセスは自分を他人と区別することから始まります。

他人と距離を取る様になります。

距離を取れば自動的に孤独になります。

子どもの成長期にはこの孤独現象が見られるものです。

そして自分がだんだん見えて来ます。

 

自分が見えたからといってそれでどうなるものではありまません。

自分が見えたら偉くなれるわけではありません。

お金餅になるわけでもありません。

逆かもしれません。自分が見えたら生きにくくなります。

それなのに自分を見る様になるのです。

 

人間の課題です。宿命です。

乳児が喋る様になり、いつしか歩き始める様に、人間は自分を考える様になるのです。

始めは混乱します。自分のことを考える様になったら周囲との間に亀裂が生じてしまいます。

それでも自分のことを考える能力はどんどん大きくなって行きます。

思春期の子どもたちはこんな状態です。

 

ある日自分という存在を周囲とは関係なく感じる様になります。

自分という存在への手がかりがつかめたのです。

その時に生まれるものがあります。

静寂です。静寂な状態です。

自分を自分の中に見つけた人は静寂を知っているのです。

 

自分探しというのが流行しています。

自分を探す時、始めは外に探してしまうものです。

しかし外に探している間、その人はガサガサしてうるさいです。

知識がどんどん膨らんで、人とは知識で話しをします。

思春期の延長にいるのです。

 

自分が自分の中に見つかるとその人は一変します。

ガサガサは突然静かになります。

知識はあるのに喋らず、人の話しに耳を傾ける様になります。

その静寂の中から周囲への思いやりが生まれるのです。

その静寂は消極的な静けさではなく、積極的な静けさです。

 

私のライアーはこの静寂に力を送りたいと願っています。

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