不器用の美、小津監督と笠智衆

2018年4月10日

器用と不器用との違いは不器用な人ほど痛く感じているものです。

「器用な方ですね」という具合に器用というのは褒め言葉で、不器用はというと全く反対で欠点を指摘されているからでしょうか。

ところがこの正反対と思われがちな位置関係ですが、発想を転換することによって固定しているものから流動的なものに変わってきます。そして思わず、不器用が大事と叫びたくなることもあるのです。

 

不器用ということでいの一番に思い浮かぶのが映画俳優の笠智衆です。

小津安二郎監督が、冴えない役者の集まっていた大部屋から笠智衆を拾い上げたのが事の始まりでした。もしこの幸運がなければ笠智衆というや映画俳優は決して陽の目を見ることのなかった俳優で、生涯大根役者と呼ばれ続けたかもしれないのです。

時代劇から現代ものまでなんでもござれのような役者もいます。メロドラマのモテ男役も嫌われ者の悪役もそつなく演じきってしまう役者もいます。笠智衆からはそういう幅広さは期待できません。本当に不器用な役者さんでした。

しかし小津映画の中で笠智衆は異彩を放って輝いています。その輝きの立役者はといえば、小津監督の慧眼はもちろんですが、彼の筋金入りの不器用にあると私は考えています。

笠智衆は映画の中で与えられた役を演じているのでしょうが、出来上がった映画を見ると、どの役も笠智衆という人間そのままが感じられます。どこかに危なっかしさが漂っていて、まるで日常という現実がそのまま映画の中に収まったような独特な味わいがあり、それが小津作品を芸術の高みに導きます。

小津監督の映画哲学は「日常生活が映画になる」というものでした。それは日常生活の有様を映画の題材にするだけではなく、そもそも作り事で、非日常である映画と日常という現実の間に架け橋をかけることだったのです、さらに日常を非日常化することと言えると思います。日常を報告したドキュメンタリーではなく、また非日常の絵空事を作り上げただけのファンタジーものでもなく、日常と非日常の融合こそが映画の果たすべき役割だと考えていました。

小津監督のこの哲学を実現するためには笠智衆という、悪く言えば大根役者のような不器用さが欠かせなかったのです。映画の中の笠智衆のあまりの不器用さは滑稽でもあります。が却って見ている人に現実の自分の父親あるいはおじいちゃんを強烈に連想させていたはずです。そしてそこに小津映画のみが持つ、映画という非日常的緊張感の中に独特な安心感を作り出したのです。

不器用な人間には素朴さ、朴訥感があります。それ以上にこの不器用さには意外な秘密が隠されています。誠実感です。誠実さというのはこの不器用からくることがあるのです。

小津監督も実は不器用な監督だったのではなかったのかと想像しています。小津映画の持つ透明感は他の監督の映画からは得られないもので、そこを通奏低音のように流れているのが誠実さです。小津映画は、嘘八百をかき集めた非日常の中を誠実さが貫いていることで、何年たっても褪せないのでしょう。不器用に裏打ちされた誠実さのなせる技です。この誠実さ、真面目というのとは違って、なんともほくそ笑んでしまう不器用から生まれた、どうしようもない純粋さです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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