感情と自由の関係

2012年6月21日

感情が大事といつも言っています。

自分という意識は感情の中にあるからです。

 

まず感情と感情的とは区別しておきたいと思います。

感情的という言い方には衝動的なものが随分含まれています。

ですから、理性上位の現代は感情的というのは理性的であることに比べると劣る様な言い方をされてしまい、評価は低いです。

確かに感情の中にはかなり衝動的なものが入り込んでいますから、感情イコール衝動的と解釈されるからです。

しかし感情には同様に理性も混ざっています。

その時は理性的といっています。

 

理性と衝動の混ざっているところそれが感情です。

 ということは、衝動的感情(これがいわゆる感情的ということです)と同じに理性的感情があるということです。

 

衝動的感情は衝動的です。本能的、動物的とも言えます。思考の跡が見えないこともあります。

たいていはステレオタイプのパターン化した行動になります。

単純なことをいつも繰り返すということです。

考えないですぐ行動に走ってしまいます。

理性から見たら実に幼稚に見えるものです。

 

理性的感情はどうかというと、理性が感情の中で強くなると知的になりますから、もの解りがよくなります。

理屈っぽくなり、弁が立つようになりますから、いわゆるお利口さんに見えます。

しかしここには落とし穴があります。

現代社会はこの落とし穴に落ちているのに気付かずにいます。

 

感情が理性的、知的になると、物事を図式化しようとします。

物事をなんでもかんでも自分の都合のいい図式の中にはめ込んでしまいます。

図式にはめ込んで整理できたら安心するのです。

この落とし穴に落ちてしまうと、自分の信じた図式が全てになってしまいます。

 

知的な人は庶民的、信仰的な宗教生活を毛嫌いします。

宗教なんて馬鹿のやることだと言わんばかりです。

しかし、自分の信じた図式は徹底的に信じるという変な癖があります。

学問が宗教性を帯びてしまうこと、学問が偏狂的なってしまうことに意外と全然気づいていなのです。

もちろん理性的な人はそのことを否定しますが、現代、学問が宗教を代行していることだってありうるのです。

 

しかも自分が信じた図式を研究という名のもとに完璧にしようとし、そこからアカデミーの世界によく見られる権威主義という愚かな世界がうまれます。

理性的であることを誇りにしているところほど権威主義がはびこってしまうのはそのためです。

 

シュタイナーの中にも随分図式が支配していることを指摘しておこうと思います。

このことはいつの日か、別枠で述べるつもりです。

これはシュタイナーを勉強する人たちの多くが理性的、知的感情の持ち主だということかもしれません。

 

シュタイナーだけでなく心理学の世界にも図式化の傾向が定着しています。

心理学とは人の心を、感情をしっかりと図式的に説明することです。

それが権威とし存在するところでは通用するのでしょうが、現実の心、感情とは無縁の様な気がするのです。

心、感情のカウンセリングは図式化することとは違うものだと思っています。

 

思考が図式化されてしまっては、考える範囲が狭まってしまいますから本来はとても不自由なものです。

しかしこの不自由案外居心地はいい様です。

 

シュタイナーは自由ということをいろいろな形で引き合いに出してきます。

自由の哲学、自由への教育という言い方です。

しかしシュタイナーは「こうすると自由になります」というものは出していません。

自由は図式化されないからです。

「ここには自由があります」という言い方は無謀です。

「どうすると自由になるのですか」という問いはシュタイナーの世界から一番遠いいものです。

 

自由というのは、一応言葉として存在していますが、形として見えるものがあるわけではないのです。

自由は言葉としてはあるのに実際には見えもしなければ、聞こえもしないものです。手で触ることもできません。

しかしイメージ的、直感的、感情的には存在しています。

しかも自由は個人の中でしか成就しないものです。

シュタイナーの勉強をしている人がみんな一緒に自由になるということはあり得ないのです。

 

現代社会が落ちてしまった落とし穴は理性的感情というものでした。

できれば早くそこから抜け出したいものです。

何が必要なのでしょうか。

 

図式化の癖を抜け出すことなのですが、簡単なことではありません。

図式化の癖は相当深く根を張っています。

しかも図式化はとても便利なものだからです。

 

図式化にはもう一つの落とし穴があります。

解った、理解したという感情です。

ただ自分が信じている図式で説明がついただけなのに、恐ろしいことに、解ったという感情が生まれてしまうのです。

これは驕りです。理性的盲信です。

 

解らないということにもっと自信を持っていいと思います。。

解らないということは、理性的感情が感じている様に、恥ずかしいことではないのです。

逆です。

解らないということから、これからがあるのですから、理性的に知的に理解を閉じ込めるのは止めることです。

理性的、知的理解、つまり図式化というのは、鳥を鳥籠の中に入れて観察している様なものなのです。

鳥は自然の中で、空気の中で、大空を飛びまわっている、捉えどころがないものなのです。

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