独学のすすめ
独学は楽しいものと私は思っていますが、向き不向きというよりも出来る人と出来ない人にはっきり分かれるようです。
学校に行って同じことを学ぼうとしているお友達を作りワイワイしながら学ぶ方が向いている人もいます。
有名な先生に就いて教えてもらうのは、それはそれで楽しいものですが、いつも言われた通りにしていなければなりません。
独学の魅力は何と言ってもペースを自分で決められるのと、色々と勝手な想像を織り交ぜながらの散策学習で、先生に就いて習っていると味わえない発見のスリルも独学でしか味わえない空気です。無鉄砲といえば無鉄砲で、自己流だし所詮趣味の領域だと言われてしまうかもしれませんが、独創的な発明はいつも独学でものにした人からと相場が決まっています。
独学で後世に業績を残した人たちは天才と褒め称えられます。レオナルド・ダ・ビンチの様な天才ですが、そういう天才は一握りの大天才で、稀なる人類へのご褒美で常人の手の届かないところに居ますからここでは深入りができません。ここでは独学そのものに天才的傾向があることに焦点を当てて見たいと思っています。小さな天才たちの話です。つまり私たち自身の話です。
天才と独学、別の言葉ですが多分同じことを言っていると思います。ゲーテが「天才とは努力する才能」というとき、それはまさに独学のことを遠回しに言っているかのように聞こえるのです。
天才というと聞こえはいいですが、現実には自分勝手で、無鉄砲の向こう見ずで、破廉恥で、訳のわからないことをしでかす輩のことです。上手く行けば天才で、そうでないとキチガイとなります。しかし天才である所以は前例がないということですから、常識一辺倒のお行儀のいい人からは煙たがられ、馬鹿にされる宿命にあるものですが、人類はこの輩によって前進してきたのです。人類なんて言わなくても、一人の人間もいつもその人の中の天才のおかげで前進してきたはずなのです。
天才というのは何も特別なものではなく、特に小さな天才は一人一人の中に住んでいて、人生をワクワクさせているものなのです。
どんな分野でも八方塞がりを体験しないで大成するなんてありえません。モーツァルトは人が「彼は鳥がさえずるように苦労なく音楽を作る」と言っているのを聞いて「私ほど努力した人間を私は知らない」と激しく反発したと言います。彼の恐るべき天才が瞬時に八方塞がりをワクワクしながら克服してしまっただけなのです。まさに大天才というに相応しい人です。
独学は頻繁に押し寄せるこの八方塞がりと戦わなければなりません。常に迷路の中にいるようなものです。先生に就いていれば相談に乗ってくれて解決したりするところを独学は自分に相談しなければならないのです。
独学は学びと称した自分との戦いと言えるかもしれません。戦いというより自分の中から生まれてくる問いに自ら答えるという作業です。問いが内側から湧いてこなければ続かないし、今度はそれに自分自身で答えなければならないのです。孤独といえば孤独ですが、当の本人はきっとそうは思っていなかったはずです。自分の中のもう一人の自分との対話に明け暮れていたからです。
英語の独学、継続中です。
独学者は、職人気質?と思うこともあります。
組紐を間違わずに組む方法を編み出しました。