モラルの力
動物と人間の違いの中で人間にしか無いものが幾つかあげられます。モラルは忘れてはならないものの一つで、然もその中で中心にあるものです。
動物とモラルはどうなのかというと、生活のほとんどが本能に守られているため二つの噛み合わない歯車のようなものです。モラルは無用の長物と言っていいと思います。人間にも生殖本能、防御本能、母性本能という風に本能は備わっていますがそれらは生物としての人間に属していて、モラルは精神生活の始まりとみていいもので比べるわけには生きません。別の見方をすれば本能は生まれながらに備わっている生得的な能力であるのに対し、モラルは生まれてから後獲得するものという違いも挙げられます。
モラルは日本語で倫理、道徳と訳されます。そして人間生活、特に精神生活を善に導くものとして捉えられています。「こうするものです」と言うように決まった口調の高飛車なものです。もちろんモラルと善とは深い関係にあるものなのですが、私はモラルをもっと流動的なものと考えたいのです。なぜかというと、そもそも善が流動的だからです。つまり絶対的な悪と言えるものがないように普遍的な善もないわけで、しかもモラルというのはその二つの間を行き来しながら日々成長しているからです。
善とか悪とか言われているものがどこから来るのか。それは一つの価値観から生まれます。何がよくて何がよくないのかは価値観からの価値基準によって変わります。ある価値観が支配している国から別の価値観が支配している国へ入ると、何が善で、何が善ではないのかが違っていて面食らいます。価値基準がいくつもあるというのは価値観の多様性ですから喜ばしいことですなのですが、何となく足元をすくわれたような気になるもの確かです。当然一人一人の人間もそれぞれの価値観を持って生きているので、そのことを踏まえない権力者が出たりすると社会生活はいっぺんに画一化しファシズムに陥ってしまいます。それは窮屈な社会で、精神的にとても貧弱なものでそこではモラルも硬直し押し付けがましさが目立ってきます。
モラルは後天的なものです。そして人生経験とともに深まってゆくものです。そのモラルを作るためにモラル感覚と言えるものを想定してみました。料理を深く味わうために味覚があるようにです。美味しいもの、そうでないものと色々と食べてゆく中で料理を味わう力は育ってゆきます。ところが偏ったものだけを食べていると食わず嫌いができてしまいます。玉石混交というのか、とにかくいろいろなものを食べる中で味覚を通して味わう能力が深まるのです。モラルも同じで様々な善悪に通じることで広がりが生まれ、流動的でしなやかなものとなってゆくのです。しなやかな人間がそこから生まれます。
モラルは偏らないバランスの整った力があります。それはメンタルな部分の力となって人間を支えてくれるものです。99年前、シュトゥットガルトでシュタイナー学校を始めるにあたって行われた二週間にわたる集中講座をシュタイナーは「ただ知的で感情的な仕事にすぎないと思ってはなりません。私たちはそれを、高い意味において倫理的、精神的な課題であるとみなさなければならないのです。(新田義之訳)」という言葉で始めています。モラルが問われているのです。シュタイナーはこの教育を通してしなやかな人間を育てたいと願っていたのです。