母の好物は堅焼き煎餅
私の母の自慢は、92歳で全部自分の歯を持っていて、しかもほとんど虫歯がないということです。かなり硬いお煎餅でもボリボリと食べるので、まだお若いのに歯が丈夫でない主治医が往診のたびにしきりに羨ましがっています。
病気らしい病気もほとんどないのですが、たまたま検査入院をしたりすると、就寝前に看護婦さんがきて「仲さん、これに入れ歯を入れてくださいね」と小さなプラスチックの箱を置いてゆくのですが、母には入れる入れ歯がありません。次の朝看護婦さんが入れ歯のお掃除のためにプラスチックを回収にくるのですが、中が空っぽなので「仲さん、入れ歯をしたまま寝たのね、ダメでしょう」と怒られるのですが、「私入れ歯を買うお金がないから自分の歯で生きています」と真顔で答えるのも、どうやら母の楽しみのようです。
昔からお煎餅が好きで、お煎餅を食べて90年という経歴はなかなか耳にする話ではないので、お煎餅の業界から表彰されてもいいのではないかと思ったりします。
その母にとって一つ悲しいことがあります。しかもそれが大好きなお煎餅のことでとなので相当の悲しみではないかと想像します。
その悲しみというのは、「最近のお煎餅美味しくなくてね」という、これまたあまり耳にしないことなのです。
母の自慢話を人にするときは決まって硬い煎餅を年甲斐もなくボリボリ食べることを話題にします。もちろん他にも自慢したい事はいくつもあるのですが、話題として面白いのでこの話をします。「それはすごいですね」と褒められるとまるで我が事のように嬉しくなってきます。息子バカというのでしょうか。そのことを覚えていてくださった方が次に会ったときに、母へのお土産にとお煎餅をくださったりして、それを持ち帰って「お母さん、またお煎餅をいただいたよ」と母に渡します。「ありがたいわね」とまずは嬉しそうにおもむろに包みを解いて「さてさて今日のお煎餅はどうかしらね」と言いながら早速試し食いにかかるのですが、いく種類かの詰め合わせになっている時は箱の中から決まって一番固そうなのを選んで食べるのはいつものことです。
「どう、今日のは」と聞くと、ボリボリ食べていて音がうるさくて聞こえないのでしょう返事がありません。確かに立派な音を立てて食べています。しばらくしてもう一度聞くと「なかなかよ、お礼を言っておいてね」と満足そうな笑みを浮かべるのですが、これまたいつものことで「でもね」ときます。「昔のお煎餅の味はしないのよね」と続くのです。
「昔のお煎餅ってそんなに美味しかったの」
「噛み締めるとだんだん美味しくなるのよ。お米の味が違うわね」
母は大正15年、東京の池袋に生まれました。東京っ子ですから好物のお煎餅はしょうゆ味のもので、しかも極々シンプルな物が好きなようで、ノリのついた品川巻きとかお砂糖の味のするものはほとんど手をつけません。その中でも特に堅焼き煎餅が好きなようで、口の中で噛み砕く時の凄まじい音は爽快としか言いようがありません。しかし「歯は丈夫なんだけど、最近は顎の筋肉が弱ってきて噛むのに時間がかかるわね」と愚痴をこぼしています。