原生林と母国語の中に生きるエネルギー

2018年9月12日

母国語の持つ意味。これは何度でも繰り返し強調したいものです。

ふるさとの山に向かいて言うことなし、ふるさとの山は有り難きかな、と言ったところです。山を母国語としてみると母国語の大切さありがたさがよくわかります。

今日はその母国語を山ではなく原生林に譬えて見ます。

 

原生林と呼ばれているものを一度だけですが体験したことがあります。とは言ってもほんの入り口のところまででしたが、そこですら文明化した自然、私たちを取り巻いている整備されたお行儀のいい自然とは別もので、その雰囲気の中にいると大地が歌う声が木を通して聞こえてくるのです。声とは言ってももちろん聞こえる声ではなく声のエネルギーで、木の幹を上に向かう力と同じ力が立っている私の体の中を貫き通り過ぎるのです。声というのは「人間が立つ力の音声化したもの」とは私自身が何度も繰り返して来たことですが、原生林にそのことを証明してもらった感じでした。

人間の心は何に例えられるのだろうというのは思春期に入った頃から考えていたものでした。心というのはコロコロと動いている流動無形なものという当時の印象から、永遠に動いている海の姿がまさに心でした。また海は産むの名詞化したものだろうから、心に例えるに相応わしいものだと勝手な理屈を後からつけたものでした。

原生林での声の体験は衝撃的でした。その声が原生林の中を響き渡り言葉をしゃべっているのです。海を心になぞらえていた時は沈黙した心で、心そのものの様子が海そのものに思えたのですが、原生林では足を踏み入れしばらくして聞こえて来た声が言葉となってゆくところが心との接点でした。原生林の中から母国語に満たされた心が現れて来たのです。言葉が、特に母国語が心を満たしている様子がしきりに思い出されたのです。

原生林の中で目にした混沌とした植物の育ち方はまさに自然の原型で、同じ自然とは言っても、整備された自然しか知らない現代人にとって、原生林は美しいものではなく、恐ろしいものかもしれません。そこには文明のかけらすらなく、太古の昔からの、時間と空間を超えた息遣いがあります。道というのは他でもない文明の産物ですからそんなものはありません。木が倒れっぱなしで苔だらけの世界です。迷路などをはるかに超えた異次元です。どこをどう歩こうが、そこを道と呼びたければ道と呼んでもいいのです。まるで母国語で独り言でも言っているかの様でした。混沌としていてもちゃんと整理がついているのが母国語です。母国語同士なら、でたらめに喋ってもちゃんと通じる事があるのです。文法はしっちゃかめっちゃか、語彙の意味もなんとなくという程度でしっかり通じてしまうのが母国語同士での会話です。ここに母国語の偉大さがあります。

 

以前のブログで、ロボットには母国語がないということを指摘しました。人間である所以は言葉です。幾つの言葉ができるかではなく、母国語があるかないかなのです。ロボットの言葉はまさに文明によって整理された自然の様な言葉だと言っていいと思います。いくつもの言葉が理解でき喋れても母国語がないのです。

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