解らないという意識から生まれる霊的な目覚め
今日は霊のことを扱ってみようと思います。
霊とは言っても、霊的な力、霊の世界のことなど解らないことだらけです。
ここでは霊的なものに目覚めるのはどういう状況でなのかということに絞ります。
知的な時代の人にとってと言う副題を添えます。
霊と言っただけで、普通の人は一歩引いて構えてしまいます。
気持ちが悪いという人もいますが、霊は解らないから、という理由がほとんどです。
解らないイコール、そんなものはないという簡単な図式もよく見受けます。
霊は次元の違うものです。
ということは、私たちの理解の枠を超えているものです。
理解しきれないものとも言えます。
そんな曖昧なものは眉唾だと、人間の理解力を誇りにしている人は言うと思います。
その人たちは理解できる物の中だけで満足しているのです。
では時々いる、霊のことが解ると言っている人たちは何を言っているのでしょう。
いろいろな人がいるので、その人たちの言葉を注意深く聞いてください。
解って言っている人の言葉は現実ですから、私たちでも実感できます。
そして私たちの普段人生を豊かにするものです。
知ったかぶりはどことなく辻褄は合っているものの後味は良くないうえ、生活に結びつかないものです。
その人の独断で、都合のいい様に霊を説明しているだけではないか、そう思ってしまうこともあります。
霊のことは解らないという人は、では何が解っているのですかと聞きたくなります。
私たちのまわりを見回すと、解っているものはほんのわずかです。
説明のつかないものばかりです。
霊のことに限らず、実際には解らないものに取り巻かれて生きています。
「解らない」ということともっと気楽に付き合えばいいのにと思います。
しかし、解らないと人前で言うのは勇気がいります。
「そんなこと知らないのですか」、と言われることが多いからです。
解らないというのは知らないということではなく、きっぱりとした意思表示です。
みんなが知ったふりをして、解らないことを、解らないと言うことがまかり通らなくなったら大変です。
それは進歩を妨げます。
進歩は解らないという意識が凝縮した所に生まれるものです。
科学万能の時代などと言われた時もありますが、それは生半可な科学者の過信です。
科学というのは何かを前提して、その前提の上に説明を展開しているだけです。
科学とはその前提が保たれている間だけ通用するものです。
解っている、知っているという意識は、この前提にすがって生まれる案外怠惰な意識です。
しかし科学の先端は全く違い解らないことと正直に付き合っています。
それがなければ発明も発見もないわけですから、先端に行けば行くほど解らないという意識を大切にしています。
解っている、知っているという意識は、全てはストップさせてしまう、怠慢な姿勢なのです。
もしかすると努力が嫌で解った、知っていますと言うのかもしれません。
解らないを持続させるとき精神力が鍛えられます。
解らないという意識が働いているところで一番霊的な力が働いているからです。
シュタイナーは解らないという時、自我は一番活発に働いていると考えていました。
自我はエゴとは違います。
エゴは自分を守るためのものですが、ここでいう自我は自分を解放するものです。
解った、知っているというのは自分を守ろうとしているエゴから生まれる意識です。
解らないと言える時、自我が自分を解放します。
解ったという意識を悪ものの様に扱ってしまったかもしれません。
もちろん解ったというプロセスが大事なことは百も承知しています。
解ったと言える瞬間は達成感に満たされ、とても健康なものです。
しかし何時までも「解った」のままでいると、知っているという状態に甘んじることになります。
霊のことはほったらかしにしている様に思われるかもしれませんが、霊のこと、霊の世界のことは解らないという意識から接点が生まれます。
この接点抜きに霊のことを知ったかぶりをして語ると、抽象的な辻褄の合った霊のことを言い始めます。
解らないという意識は謙虚ということにも通じます。
謙虚であること、そして解らないという意識は、霊的なことへの始めの一歩です。
ここから霊的な世界への旅が始まるのです。