限界はあるのかないのか

2018年10月11日

限界は私たちにとって枠です。肉体的な限界もあればメンタルな限界もあります。生きた限界とそうでない限界もあると思っています。

肉体的な限界はスポーツによく見られます。記録への挑戦もその一つです。

1968年のメキシコオリンピックの男子走り幅跳びの珍しい話しです。アメリカのボブ・ビーモンが、当時のスポーツ科学の専門家たちが提示した限界、8メートル50、を楽々と超えてしまい、測定はメキシコオリンピックのために新しく開発された計器ではなく巻き尺で行われました。戸惑っている人たちの姿がユーモラスで良く覚えています。当時の世界記録は8メートル35でした。これは長いこと塗り替えられずにいたので、8メートル50が限界とされ、計器はそこまでを正確に測るよう設計されていたのです。

さらにこの記録はあまりに驚異的だったため、走り幅跳びの限界といわれ、永遠に破られない大記録と騒がれたものでしたが、23年後の東京での世界陸上でまずは追い風参考ながらカール・ルイスが8メートル91を跳び、そしてその直後のマイク・パウェルの8メートル95で塗り替えられてしまいます。その後走り幅跳びの記録がどこまで伸びるのかを口にする人はいなくなってしまいました。

この限界は外から規定されたもので、記録という限界なので、破られるためのものです。スポーツ選手の目標になっているもので事実常に更新されています。

 

メンタルな限界は自分で自分を規定してしまいます。「私とはこう言う人間だ」と言う具合に、自分にできる範囲を枠で括ってしまうのです。私の経験では真面目なタイプの人に多い様です。真面目を含め、これは結構深刻な問題です。というのは、その枠の中に安住してしまうとそこから抜け出すのが難しいからです。人生がマンネリ化してしまい、硬直状態になります。

この枠がきつい人とそうでない人がいますが、いずれにせよ壊すのに役立つものは自分からの働きかけです。何が大きな力なのか、それは心の余裕です。ゆったりした余裕の中で枠が、那(たが)が緩みます。

70才になって「自分の体力の限界を試してみます」と言って、四国八十八箇所に出かけた男の人がいました。「どこまで歩けますかね。初日で降参するかもしれませんが全行程を自分の足で回りたいものです」と自分の限界をワクワクしながら話されている姿には余裕が感じられ、誠に羨ましい限りでした。

90歳になる男性が「私は死後の世界がどうなっているのか楽しみでワクワクしているのですよ」と話してくださいました。その時も大変な余裕を感じました。その方は科学者で長年植物の研究をされてきて、常に新しい発見を楽しみに研究生活を送られてきたのでした。死後の世界はその植物研究の延長にあるものだったのです。

お二人の生き様にユーモアを感じました。

 

限界はあるのかないのか、私にはどちらもありです。

限界は励みとしてあっていものです。目標とよく似ています。

また人間の能力には限界などないのです。

しかし一方で限界を愛する人もいます。

限界を安住の方便にするのは間違いです。それは言い訳につながる醜い姿です。

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