時間の中の今。あるいは「無」の中で夢を語る。
2050年というまだ先のことなのですが。その年に私は99歳になります。
2050年、と言ってしまいましたが、この年は存在するのでしょうか。
あと38年したら、これが普通です。
未来のことですから本当のところは解らないですが、ただ計算上は存在します。
算数の単純な足し算で一年一年加えて行くと38番目が2050年です
よく、なん年後には・・・、とあまり考えずに言ってしまいますが、推定しているだけです。
あるいは願望ですから、実際には存在しないものです。
「まだ存在していない」ものです。
まだ存在しない未来というのは、一体どこにあるのでしょうか。
言語はそのことを絶妙な言い方で言いあらわします。
「10年したら」という時には微妙な言い方が登場します。
「10年したら」の「したら」には「し」は「する」の「す」の過去形です。
ここでは未来と過去が入り混じっています。
未来なのに過去を振り向いています。
なん年か先のことなのに、過去のことの様に見ています。
今の時点2012年から見れば確実に未来です。
ところが、言語はある時点を想定しています。その時点はよく見えないですが、その時点から過去にするのです。
何故そうなるのか。
私たちは過去のことしか頭で考え、整理できないからです。
日本語の神様の苦肉の策です。
時間は確かに過去から未来の方へと流れていますが、私たちの意識的の中の時間は逆方向を向いています。
私たちが時間のことを考えるときは過去の方を向いているのです。
過去はとても整理しやすいものです。
ある意味では私たちの思い通りに整理できます。
人間は過去に向かいながら考えているだけではありません。そこで反省できます。
シュタイナーは、寝ている間人間は一日を逆行していて、その間にいろいろと内省、反省をしていると言います。
それを、寝ている時は、倫理的存在ということもあります。
時間はただ流れているだけではないということです。
私たちは時間をただ計る対象としてしか捉えることをしなくなってしまいました。
しかし時間の流れというのは意味を持って流れているものなのです。
一つの流れは過去から未来に。
この中で人間は行動を展開します。
人間の行為は全て未来に向かっています。
もう一つは未来から過去に向かってです。
ここで人間は倫理的になり、反省します。
考えるというのは過去に向かう時間の中で特に大切なものです。
過去に向かう時間の中で人間が倫理理的であるとすると、未来に向かう時間の中で人間はどう見たらいいのでしょうか。
非倫理的なのでしょうか。
私は違うと思います。
まだ倫理のない世界、無倫理というのが適切です。
よい、わるいということがまだ生まれていないある意味では「純粋な」ものです。
過去に向かう時間の中で人間は考えているのですが、それを未来に向けて行動に変えなければなりません。
そこで現在というものが大切になって来ます。
現在は、つまり今という時間の点は、「数学的点」の様なもので、感覚的には見えないのですが立派に存在しています。
日本語の「いまなか」という言葉がいうところです。
今のまん真ん中、でしょう。
あるいは東洋思想の「無」と言えるかもしれません。
この「今」、「現在」には働きがあります。
一つは過去から流れる時間を未来に変える働きをしている場所と考えてはどうでしょうか。
時間ですが場所と言います。
もう一つは、「夢」を語っているのです。
もちろん夢というのは自分の中にしかないものですから、自分自身に向かって夢を語っているのです。
これが現在です。現在、今というのは夢を生産しているのです。
夢というのは、実はとても現実的なものなのです。
未来というのはこの夢の中からうまれるのです。
未来は、過去から現在に向かう流れの中にありながら、質的には全く違うものです。
未来は、のほほんと、ぼんやりとしていては生まれないのです。
未来に向かうというのはスタート台からプールに飛び込む様なものです。
しっかりとスタート台を踏み占めます。それが現在です。
そして思い切って、未来という水の中に入って行くのです。
未来に向かうには簡単にいえば勇気が必要だということです。