クライストのマリオネット芝居について(種村季弘訳)

2018年12月23日

ドイツの小説家・劇作家、ハインリッヒ・クライストの小説「マリオネット芝居について」は、20ページほどの短編にも関わらず、内容の特異性からいろいろに取り上げられる小説です。

シュトゥットガルトのバレー団が毎朝ミーティングの時に動きについて整理するための教材として読んでいたようで、バレーの動きを芸術としてではなく、哲学的に整理するために格好のものだったと、当時舞台で踊っていた友人が話してくれたのを思い出します。動きの芸術的解釈となると普段は喧嘩になるくらい喧々轟々となるのに、動くということを哲学的に説明しているため、冷静に話が進むと笑っていました。

 

公園でばったり会った二人の人間の対話という形式で、マリオネットの動きとバレリーナの動きを比較しながら話は進んでゆきます。この二人の一人は舞踏芸術の愛好家、もう一人は舞台で踊るダンサーです。愛好家がダンサーをマリオネットの芝居小屋で何度か見かけたということから話が始まります。会話の内容は芸術論的ではなく、こんな感じです。「どの運動にも、一つの重心があるのです。重心が描くはずの線は一応いたって単純なものでしょう。大概の場合直線だろうと思います。曲がる場合には、その湾曲の法則は少なくとも一時曲線、乃至は二次曲線からなると思います。後者の二次曲線の場合でもせいぜいが楕円曲線でしょう。」哲学的であると同時に数学的な話になるのです。この小説の中では人間が動くということを数学的に整理しようとしているのです。

読みにくい小説です。しかし読者の予想しない話の展開が逆に読者を引き込みます。そしてバレーとかマリオネットの、今まで見えていなかった骨格、数学的な法則が見えてくるので、改めて数学的なものが物事を整理する時に偉大な力を発揮するのかこの本で改めて発見するのです。

芸術というのはどうしても主観的な世界を巡り巡り、ついには結論に至らないのです。そこに数学的なセンスで入り込んで行く。答えを見つけるためでなく、思考のプロセスを明晰にするためです。ここが数学の偉大さです。冷静な視点から、動きの生まれるプロセスを見るのです。芸術作品となったものを感覚的にでもなく、総体的にでもなく、芸術を作っている素材、要素、要因というものを分析しながら、芸術作品の骨格を確認するのです。その作業のもとで作品はバラバラに分解されてしまいますが、そこから新しい作品の価値が生まれてくることも事実です。ゲーテが好んで使ったメタモルフォーゼです。

動き全体に話が進む中で、機械の動き、動物の動きも飛び出してきます。それらは純粋な動きとも神的な動きともみなされます。そして最後に認識(自意識)に目覚めてしまった人間の動きが語られます。人間の動きにはどうしても虚栄の兆しが垣間見られ、そのために純粋な無垢な動きからは遠ざかってしまったというのです。熊と戦うフェンシングの名手の話も登場します。熊の純粋無垢な動きと人間の虚栄を含んだ動きという図式から、人間は熊に勝てないと結論します。そして小説は最後にこんな会話が交わされて終わります。

「わたたちは無垢の状態に立ち返るためにはもう一度認識の木の実を食べなければならないのですね?」

「さよう、それが世界史の最終章なのです」

 

 

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