線について
線を見ているとそこに生きている時間を感じます。多分、線の動きの中には時間が生きているからでしょう。線の動きを見ているだけで気持ちが落ち着くこともあります。線を見ながら自分が時間の存在になっているからだろうと思うのです。
長年教師をされて、去年退官された先生に講演会の後で声をかけられお話をした時のことです。お話をしたと言っても僅かの言葉を交わした程度ですから、その方がかつて教師だったこと以外は知らないままお別れしたのですが、そのわずかの間に、その方がどの様な経緯でシュタイナー教育へ関心を持たれるようになったかについて熱く語られたのです。
フォルメンが必須になっていることに心が動かされたそうです。
シュタイナー教育にはフォルメンという科目があり、しかも必須科目です。
その方は、「一般にはフォルメンと呼んでいる様ですが、本質的なのは形ではなく線のことだ」とはっきりと指摘されていました。ですから形ではなく線のことについて、線を引くことについて短い時間の中で熱く語られ、線の持つ意味、線を引くことの大切さをシュタイナー教育がわかっているというだけでこの教育に共感できるのだということでした。
実は、その先生が指摘された通りで、日本ではフォルメンという訳語があてがわれていますが、そもそもはDynamisches Zeichnenですから、ダイナミックに、活き活きと線を引くこととなるのです。ですから、形、フォルムを作ることを念頭に置いているのではなく、兎も角線を引くことを重視しているのです。そして線にはたくさんの意味が詰まっているので、たかが線、されど線と言えると思います。
日本の文化だとさながら習字です。私はその方とお話ししている時「うめ子先生」と呼ばれ慕われた、山形にある基督独立学園の習字の先生のことを思い浮かべていました。
「うめ子先生」は一度も生徒の前で生徒の書いた字に朱を入れないのです。そうではなく生徒の書いた字がうまく書けていないとみるや、朱を入れる代わりに、新しい半紙の上に生徒の目の前で自ら筆を取り書いて見せるのです。線から形が生まれる様を生徒に見せたかったのでしょう。
習字を決定づけているのは形の良し悪しではないはずです。特に優れた書は、素人目で判断すると形的には崩れていることがほとんどです。良寛さんの書を思い浮かべています。書はそもそも線の動きが命です。そのことから、生徒が自分で書いた字が朱を入れて訂正されたのを見ても、生徒はいい字をかける様にはならないのです。形にこだわると書の本質から外れます。「うめ子先生」が半紙に字を書くとき、力の入れ具合、抜き具合、筆運びの速度などを生徒は目の当たりにするわけです。それこそが時の生まれる瞬間で書道の本質です。そうして初めて字を書くことが伝わってくるのです。それを肌で感じることで字を書くことの喜びへと導かれるのです。
線は頭でまとめようとするとつまらないものになってしまいます。いわゆる優等生の字はつまらないです。綺麗にまとまっていたりするものですが、後にも先にもそれだけで味気のないものです。そこには上手く書こうという媚があり、線のことが少しわかってくると醜いものです。また衝動的に書かれた線というのも本人の自己満足に過ぎないのではたから見ると退屈なものです。
そうすると活き活きした線というのは知性と衝動の混ざった感情と関わりがあるものという言い方ができるのかもしれません。あるいは線を引くことで感情か引き出されてくるといってもいいのかもしれません。
感情というのは言葉にしにくいものですが、私は無と深く関わっているものだと思っています。のびのびと屈託無く書かれている線、無の境地で書かれた線は見ていて気持ちがよく、そうして生まれた線はワクワクしながら追っているものです。