何故シューベルトのピアノソナタを聞くのか
私はシューベルトのピアノソナタの様に生きたいと思うことがあります。
そうです、まさにシューベルトのピアノソナタの様にです。
私が感じる日常性にこんなに近い音楽は他にないからです。
日常の思いから生まれた、人間の本質が響いている音楽だと感じているのです。
私が言いたい日常とは、聖と俗の混ざった時間と空間のことです。そして日常性とはそこに去来する様々な思いのことです。日常というのはあまりに身近すぎるためなのか、とらえにくいものです。そんな中でまず言えるのは「平凡だ」ということです。「特殊な、特別な」というニュワンスから一番遠いものだということです。
平凡な俗っぽさと同じ様に見えるのですが、よく見ると日常空間は意外と複雑で、例えば高貴と低俗、善と悪が複雑に入り乱れているところです。単なる俗と違うのは日常は淡々としているということ、そして屈託のないところです。あるがままという、悪く言えば刹那的なところも特徴です。
その日常には様々な思いが去来しています。極上の聖性から極悪な欲までが日常にはあって、その間を時計の振り子の様に揺れています。こうした日常が日常生活を作り出しているのですが、その日常を一番深く生きているのは外でもない母親でしょう。
私はこうした日常、日常的なあり方が大切だと感じています。普通であることの安心感が日常にはあって、唯一私たちの居場所にふさわしいところです。しかし世の中を見渡すと一番目立たないものが日常で、逆にそれゆえに興味が湧いてきます。
こんな日常とシューベルトのピアノ音楽が私の心の中でシンクロします。
私が十代の頃、日本でシューベルトのピアノ曲といえば二流品扱いで、そんなものをコンサートのプログラムに入れる人はほとんどいませんでした。レコード業界もその考えに同調していて、レコード店のシューベルトのコーナーはどの店も閑散としていたものです。たまたまあっても有名な未完成、冬の旅などが2枚か3枚、それでも置いてあればいい方という状況でした。
その当時ウィーンにピアノで留学した日本の人から後日談として聞いた話しを、この文章を書きながら思い出しています。その方は、ある日教授から「シューベルトを弾きましょう」と言われてびっくりして、とっさに「そんな二流品はいやです」と答えたのだそうです。日本の音大ではそういう扱いだったのです。すると教授は逆にびっくりしてその方を見つめ「シューベルトは音楽の本質です」ときっぱりと言われたそうです。そして渋々と練習に入ったのですが、学生時代に植え付けられた先入観を壊すことはできず、ウィーンにいながらもシューベルトはずっと苦手な音楽家だったそうです。その人曰く、ソナタとは言ってもただ流れているだけで、形も無く、何が言いたいのかわからないので、今でも弾く気になれないということの様です。
シューベルトのピアノ曲が頻繁に演奏されるきっかけを作ったのはロシアのピアニスト、スビャストラフ・リヒテルです。彼のレコードが話題になったからだと記憶しています。それはあくまで日本のことで、本場のウィーンを始め欧米諸国ではしばしばコンサートで弾かれていた様ですが、それでも他のピアノ曲に比べるとはるかに少なくマイナーなピアノ曲であった様です。
ともあれ、リヒテルの録音は画期的な録音でした。「ゆっくりすぎる」と誰もが感じるテンポはまさに驚異でした。第21番の変ロ長調のピアノソナタは元々が長い曲である上、ゆっくりなテンポでさらに長くなっていて第一楽章だけで24分かかる壮大なものに仕上がっていました。他の演奏者の録音を見ても、当時は20分を超えるものがありませんから、リヒテルの演奏が相当ゆっくりだったことがお分かりいただけると思います。ドストエフスキー、トルストイに通じるロシア気質にしかできない芸当だと私も感じて聞いていました。
しかしそのゆっくり、ゆったりが核心を突いたのか、それ以降シューベルトのピアノソナタを録音するのが流行になるという現象が起こります。著名なピアニストたちは今までそっぽを向いていたシューベルトのピアノソナタをこぞって録音し始めたのです。関を切って流れる水の様にでした。
数多くの録音が出回って色々な演奏が聴ける楽しみが増えたのですが、いつもどこかにずれを感じたり物足りないものを感じながら聞いていました。「この人は本当にシューベルトを弾きたくて弾いているのだろうか。それともレコード会社から依頼されて弾いているのだろうか」などと思うこともあったほどです。モーツァルトの出来損ないの様なものもありました。ショパン崩れの様なものもありました。ベートーヴェンの様にがっちり組み立てて却ってみすぼらしくなっているものもありました。しかしそうした演奏もある意味教訓的で、そうした反面教師的な演奏を聴きながら、却ってシューベルトのピアノソナタをじっくりと味わう機会を楽しんでいました。
シューベルトのピアノソナタの難しさは、曲として、作品として、とりあえずは出来上がったものとしてあるわけですが、それらは作品でありながら作品ではないということです。その点を多くの演奏家が理解に苦しんでいる様で、モーツァルトの様にきちん出来上がったものとして弾いたり、ショパンの様に情緒が溢れんばかりに弾いたりしてしまい、シューベルトからかけ離れたつまらないものになってしまうのです。特に学問的な解釈に頼って演奏するとますますシューベルト的で無くなってしまいます。シューベルトのピアノソナタは楽譜を前にしながらも即興の精神で弾くのが理想ではないかと思っています。
シューベルトのピアノソナタというのは誰もの日常生活に去来する思いが、シューベルトによって音楽に転化したものなのかもしれないと思っています。日常生活というありふれた生活空間の中から、彼によって「何か」が音楽になったということです。その何かを引き出せたのがシューベルトの才能でした。多くの音楽のは、芸術と呼ばれる特殊空間の中で営まれる特殊作業と捉えたがります。そうなると特殊な専門家の分野に入ってしまいます。シューベルトのピアノソナタの場合は芸術作品を表現するという姿勢ではたどり着けないのです。日常生活を営む空間に音楽が忍び込んで来るというのがシューベルト的と言えるのです。日常生活と音楽が渾然一体となっている、あるいは日常生活が音楽的に高まるとも言えます。それを音楽芸術だと張り切って特殊空間に持ち込んでもシューベルトのピアノソナタは場違いで、本来のものが聞こえてこないのです。完結した作品でありながら即興という精神で向かうという、シューベルト的矛盾を克服しなければならないのです。ということは演奏に際しては演奏家の日常の音楽意識、日常の中での音楽感性の研磨が問われるものだと言えるのかもしれません。
仲さんの久しぶりのシューベルトさん。私の前にもまたシューベルトOP90のIMPROMPTUSがやってきてます*50歳の時初めてのシューベルトに真剣に向き合い、苦しみが始まり、今も続いていますが、ますますシューベルトさんから離れられない自分になっております*****先日我が家に学校の総会に初めて津吉さんが出席する為泊まってくれました~~~