ファンタジーとユーモア
ユーモアがウィットや冗談のようなものだったら簡単に説明できるのですが、ユーモアは独自の王国を持って君臨していて、近づき難く、しかもその王国は謎に満ちているところですから手を拱いてしまうのです。他に比べられるようなものもなかなか見つからないので、ユーモアについて尋ねられて答える時に難渋します。マーク・トウェインが「ユーモアはカエルのようなもので、解剖したら死んでしまうもの」と言いましたが的を得た言葉かもしれません。
ユーモアのある人間でありたいという願いは、ファンタジー豊かでいたいというのとよく似ています。ファンタジーはもともと「見えるようにする」という意味のギリシャ語で、見えないものを見えるようにする、というところから、まだ現実に現れていないものを現にするということに発展し、そこから現実離れしたという意味にまでなったと考えられます。ユーモア方はどうかというと、やはり現実的とはいえず、非現実的でありながら、逆にそこから現実を洞察するという術を持って君臨しています。茶化しているように見えて本当は一番リアルにものを見る姿勢がユーモアにはあります。ということはユーモアのある人間でありたいということは、大変な知識人、知識人以上の知識人、知識を振り回すことのない知識人であるという余裕が前提されるということのようです。私はここでも老子の「知るものは語らず、語るものは知らず」という言葉を思い出しています。そして老子もユーモア王国からやってきた人のように思えてならないのです。
ファンタジーには、前回のブログで見たように、嘘と混同されてしまうところがありました。それはファンタジーの脆さ、弱さ、危なっかしさのようなものですが、ユーモアの場合は一味違い、超然としていて、嘘との接点を探しても見つかりません。これはユーモアの特筆すべきところで、ユーモア王国と呼びたくなる所以です。ファンタジーは光と影からなっています。光の部分はまさにファンタスティックですが、影の部分が黒魔術のようなものに変容します。しかしユーモアは違います。光一元と言っていいほどのものを感じるのです。プラックユーモアはどうなっているのかと言うと、それは風刺だったりグロテスクな冗談のようなもので、ユーモアという名前がついていますが、ユーモア王国の住人ではありません。ユーモアの領域に達するには、知識が変容して生きる力にならなければならないのです。それは知識から認識へという道のりです。実践という経験によって知識は認識に深まります。それでユーモアの出来上がりかというと、それだけではまだユーモアになっていません。何かが足りません。それは、生きていることがこの上なく嬉しいという光溢れる存在への慈しみ、存在することへの喜びです。
なんだか宗教家の説教のようになってしまいましたが、仕方ありません。宗教はユーモアに憧れているからです。私はそう考えています。そのため、ユーモアを語るとどうしても宗教的なニュワンスが漂ってしまうのです。しかしユーモアは特定の神を押し付けることはなく、逆に宗教が単なる宗教的なものを超えて深い宗教に到達すればユーモアの領域に入り、自ずとユーモアが備わってくると私は思っています。宗教家が本物かどうかは、その宗教家がユーモア溢れる人かどうかということでしょうか。
ユーモアを知る人の語り口には特徴があります。その人が語る際には、真面目とか真剣とかいう人を責めるような口調を耳にすることはなく、その代わりに緩い、緩む、緩んでいるというところから来る許しが基本姿勢になっています。つまりコチコチに固まったものをほぐしてくれるのがユーモアなのです。