未完成

2019年8月23日

未だ未完成であるという意識は精神衛生上大切なものだと考えています。

私の場合未完成という言葉からまずイメージするのは人生です。だからと言って人生は未完成だと言いたいわけではありません。

人生は死をもって終わります。しかし死は自分の力の及ばないところからやって来るものです。

突然切られてしまうようなところがあります。

それだからと言って人生は未完成だとは言えないと思います。そもそも誰が人生が完成した、未完成だったと決めるのでしょうか。

 

物書きの人、例えば小説家たちは締め切りがあるからとにかく終わらせるそうです。とりあえず完成させたということですが、その小説を世間の人が読み始めたら、小説は一人歩きし始めて、立派な完成品です。

絵の展覧会に行ってオリジナルの絵を見ている時に感じることです。もし絵を描いた本人が今この絵を見たら、ここはこう直して、と絵筆を取り始めるのではないだろうかなんて思ったりします。印刷されたカタログで見る限りは完成した絵として私たちは認識しているものなのですが、オリジナルを目の前にすると、制作プロセスが伝わってきたりする一方で、未完成的な余白を感じるのです。

芸術の本質に通じるものが未完成にはありそうです。人生は短し、芸の道は長しとはよく聞く言葉です。しかし完成を目指していなければダラダラして碌でもないものしかできないでしょう。だからと言って完成を意識しすぎると今度は頭で考えただけのものしかできなくなってしまい、それも碌でもないものなのです。芸術の醍醐味は完成させようとする意志と未完成のままで居続ける狭間にあるようです。つまり芸術は意志の持続の修行だといってもいいもののようです。

 

音楽で未完成といえばシューベルトです。べつにシューベルトだけが未完成の作品を残したということではないのに、なぜかシューベルトの未完成だけが未完成と呼ばれます。かつてはこのシンフォニーの後にグレイトとよばれているハ長調のシンフォニーを書いたことになっていたので、このシンフォニーを未完成で終わらせたことが謎めいていたからでしょうか。いまはこの曲がどうやら最後のシンフォニーということになっているようで、謎は薄れてしまいましたが、この音楽の持つ魅力は薄れることなく今日に至っています。

私はこの曲に相当の思い入れがあります。簡単にいえば大好きなのです。好きになるのに理屈はなくていいので、とにかく好きなのですとだけ言えばいいわけです。

しかし、それでも一言何か言いたくなるのはわたしの悪い癖で、一言だけ言わせてもらいます。この音楽を聴いている時に感じるのは、こんな風に音楽に吸い込まれるような体験はほかではないなということです。グイグイとまるで曲の中心に向かって引き込まれる音楽もあります。私の勝手な推測ですが、多くの、もしかしたらほとんどの音楽家はそれを意図して作曲しているようです。しかしシューベルトの未完成に引き込まれるプロセスは違います。聞いているうちに曲に静かになじんでゆき、知らないうちに曲の真ん中にいるような感じがしてきます。そして気がついたら曲全体に包まれているという感じです。

若い頃にはモーツァルトを夢中で聞きました。ある時ふと何か物足りないものを感じ、モーツァルト離れが始まったのです。今にして思えば完成しすぎているということのようです。音楽の完成度ではなく、どんな音楽も出来上がっているということです。

シューベルトの魅力はじわじわと私の中で広がってゆきました。最初に気がついたのは彼の音楽には即興のような感じがすることでした。出来上がった完成した曲にも即興を感じたのです。即興曲、楽興の時とかいう作品が好まれて演奏されますが、私だけでなく多くの人がシューベルトに即興性を感じその虜になっているのでないのでしょうか。

未完成という表現がシューベルトに相応しいと多くの人が感じているということなのかもしれません。シューベルトに音楽に限らず芸術そのものを感じているとも言えそうです。

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