六十年前の話
私が子どもの頃住んでいた池袋は、昭和二十年代は特に、なかなか風情のあるところで、今では見られなくなったものがたくさん見られました。小学校に上がる前のことです。我が家の前を通るものの後をついてゆくのが楽しみだったことを思い出しています。
金魚屋さんは夏になると必ずやって来て長いリヤカーに金魚鉢をたくさん積んで「金魚ーや、金魚」と言ってゆっくりと所々で止まったりしながら行商していました。風鈴もたくさんつら下がって涼しげな音を立てていました。金魚鉢の水がこぼれないのが不思議で、金魚屋さんについて行った覚えがあります。住宅街にはほとんど車が入って来ない時代でした。冬はもちろん焼き芋屋さんです。「石やきー芋、焼き芋」というよく通る声がして、小石の中でホクホクに出来上がった焼き芋が食べたいのになかなか買ってもらえませんでした。焼き芋屋さんのリヤカーの看板には「栗より甘い十三里」と書かれてあって、大人になって川越が東京から十三里離れていることだと教えられました。川越のお芋は今でいう人気のブランド芋で栗よりずっと甘いということだったのです。天津栗の向こうを張っていたのでしょうか。流石に冬はリヤカーにくっついてゆくことはしませんでした。馬に引かれた荷馬車も時々通りかかり、珍しかったので遊んでいた友達を置いてついて行きました。馬は時々糞をします。荷台の後ろをついてゆくので馬が糞をしたのがそこからは見えなくて知らずに踏んづけて靴についたのを家まで持って帰って叱られたことがありました。紙芝居屋さんも時々現れて、始まる前に飴だか煎餅だかよくわからない駄菓子を買わされたので、お金を持っていない私たちちびはいつも追い返されてしまい、近くで見ることができませんでした。それでもおじさんの口上はなんとなく耳に残っています。
当時の池袋はまだ水洗便所ではなく、汲み取り式で、しかも幼い頃の思い出には、二つの桶を前と後ろに肩掛けして汲み取る人もまだいて、我が家では「おわん屋さん」と呼んでいましたが、この呼び名は調べても見つかりませんから、我が家独特の言い方だったのかもしれません。しかしすぐにバキュームカーに変わってしまいました。新品の近代的なバキューカーが我が家の前に止まって汚物を吸い取っている様子は画期的だったのを今でもよく覚えています。それまでの汲み取り式と違ってあっという間に仕事が終わってすぐに次の家に移ってしまいます。次の家とは言っても予約制ですから隣の家でないことが多く、しかも車ですから追いかけてついてゆくことはできませんでした。それでもバキュームカーが来るとすぐに外に出て汲み取り屋さんの仕事を固唾を飲んで眺めていました。ホースの動きが面白かったのとホースの先にいつもテニスボールが付いているのが不思議で、必ず近くまで行って観察していました。運悪く母親が通りかかると、あまり近くに行っちゃダメよとたしなめられたものです。
なぜあんなに執拗なまでについて行ったのか今思い出すと苦笑いが出て来ます。大抵は私一人だったようです。姉も一緒に遊んでいた子どもたちもついて行きませんでした。金魚屋さんについて行った時に知らない住宅街まで来てしまい家に帰れなくなって、親切な銀魚屋さんのおじさんに泣きながら連れて帰ってもらったこともありました。おじさんは怒ることもなく行商しながら送ってくれたのです。思い出すたびになんとものんびりした生活空間だったのだろうとまるで別世界に思いを馳せるような感じです。
あれから六十年以上の歳月が流れました。しばらくするとソ連の人工衛星スプートニクスが飛んで、二階の窓から夜空を眺めていました。昭和三十三年には三百三十三メートルの東京タワーができて(三月三日のことです)、テレビ放送が始まったころです。隣のうちにはテレビがあり、金曜日の夜八時にはプロレスを見る人たちが庭にあふれていました。