ユーモア
もう飽きるほどユーモアについては書いてきました。今日も思うところがありユーモアについて書きます。
三十代で体を壊した時、聖書の福音書を繰り返し読んでいました。日本にいるときに牧師の友人が四冊の小さな本をくれたのですが、それは一つ一つの福音書だったのです。
それまで見向きもしないでいた本ですが、こういう本を読むいい機会だと読み始めました。一冊読むと次の福音書という具合に、四冊を読み終わるとまた始めら読み始めそれぞれを四回づづ読んだところでやめました。やめた理由ははっきり覚えていませんが、何となくお腹がいっぱいになったような感じで、これ以上読んでも楽しさを見つけられないと思ったのだと思います。
福音書には実に病気直しの例が頻繁に登場するのに驚きました。だからと言って自分の病気にいいい影響を直接感じていたわけではありません。初めは聖書の言葉に慣れるのに難儀しました。何となくよそよそしくて、血の通った文章とは思えなかったのです。読み進むうちに慣れきて違和感は無くなりましたが、最後までぎこちない文章だという感想は持つ続けていました。
当時気になったのは聖書の中に笑いがないことでした。もちろんユーモアというものもなかったように記憶しています。宗教というのはこういうものなのかと、初めて真剣に聖書を読んでわかった気がしました。聖典と言われるものは、キリスト教に限らずよく似ていると思います。つまりユーモアを語らないということです。ユーモアはご法度のような扱いを受けているようです。
ユーモアという言葉は歴史的には古くから存在しているようですが、精神性についての言葉ではなく、湿り気、潤のことを言っていて、気質が生まれる原因になっている体液の種類のことなどですから、今日のユーモアとは基本的に違います。
今日のユーモアは近代、現代の新しい発見によるものだと思っています。発見者は知られていません。一人というより、時代の流れの中でユーモアの必要性に気づき、その大切さを感じる人が色々なところで同時に出現したと言ってもいいようです。ともあれ、社会が真面目に傾き息苦しくなるのに耐えられないところでユーモアが認められたのでしょう。精神性としてのユーモアは存在を認められたのです。
しかし人間とは真面目な存在物のようで、なかなかユーモアを本気で認めようとはしないのです。ユーモアには緊張をほぐすような働きがあるので、真面目に物事を考えている人たちは、ユーモアの巧妙を知りません。よく茶化していると勘違いされるものです。ユーモアなんて言っているのはいい加減な人間だと勘違いしている人もいます。
フランスの数学者でポアンカレという人がいて、偉大な発明をしている大学者でありながら数学的直感などということをいう変わり種としても有名です。ある時馬車に乗ろうとして、馬車に足をかけた時に今まで解けなかった命題が解けたそうで、ポアンカレはどこかに直感が降りてきそうな精神的資質を持っていたようです。またある物理学者はよく友達を呼んでは卓球をするのだそうです。下手の横好きの卓球ですからどっちが勝つなどという試合形式の卓球ではなく、ただただ相手から来た球を打ち返すことを永遠に続けているだけの卓球でした。しかしその全く他愛のないピンポンの動きの中で、彼はいくつもの偉大な発見や発明をしたというのです。
ユーモアの一つの特徴は合目的性から外れているということだと私は思っています。混沌とした状態の中にあるものかもしれません。ある目的のために何かをするというのはもしかしたら古い精神的な姿勢なのかもしれません。訳の分からな、一見無意味に見えるような状態の中に、とんでもない空間が存在しているのかもしれないのです。それはキリキリと眉間に皺を寄せていては生まれないもので、無邪気にピンポンをしているような時に作られる真空状態の空間かもしれません。
ユーモアとは直感に限りなく近いもののように思えてきました。