ライアー演奏のお手本、(質問に答えて)
ライアーの演奏に関してお手本にしたことはなんですかと聞かれた時、一瞬どっちの方から答えようかと迷います。どっちと言うのは二つある中からの選択なんです。精神面と技術面です。
ライアー演奏を精神面で鍛えるなんてオーバーですが、ライアーの演奏そのものを安定させると言うことです。どんな曲を弾くにしても、安定感は同じに要求されていますから、そこに乱れがあれば、曲の出来具合に影響します。速い曲もゆっくりな曲も、安定していないと聞くに耐えないものになってしまいます。
ライアーは表現を目的とした楽器ではないので表現の解釈云々よりも、演奏する時の心の安定の方がライアーという楽器をよく響かせ、聞き手にも届きます。
エマヌエル・フォイアマンとスヴァストラフ・リヒテルが色々な状況で精神的に支えてくれました。チェロとピアノと二人が演奏した楽器は違いますが、共通しているのは音楽を単なる表現の道具にしていないというところです。一つ一つの作品が持っている根幹がこの二人からは聞こえてきます。私はあえて音楽の骨相学という言い方をしていますが、表情づけとかテクニカルなというのが表面的なものに見えてくる、芯の部分が聴ける深い演奏です。今日の効果を狙った装飾的な演奏が好まれる時代には「退屈な」という言い方がされてしまうものかもしれませんが、ものの本質はいつも淡々としていて静かなものです。その静けさからの音楽が私にとっての音楽なので、ライアーでもそういう演奏をしようと心がけています。
そのためにいつも演奏するのがヘンデルの羊飼いのためのシンフォニーです。私が一番初めのCDの一番初めに選んだ曲です。シンプルな曲想の中に緊張感が隠されているヘンデルならではの曲です。オーケストラのための曲をライアーに編曲したものですが、ライアーに本当によくあっていると思っています。伸び伸びとした音のつながりなどライアーのいいところを存分に引き出してくれるのです。カザルスが毎朝ピアノでバッハの平均律一番のプレリュードを弾いて一日を始めたと書いていますが、私もライアーの弾き始めにはこの「ピファ」と呼ばれている、羊飼いのシンフォニーを弾きます。
技術的な面のことは、話をわかりやすくするために楽器を例に取ります。リュート、ギターそしてチェンバロです。皆弦をはじく撥弦楽器です。チェンバロはギター、リュートと違い、指ではなく人工的に作られた爪ではじきます。
先日クープラン のチェンバロ曲を聞いていて、何度もため息をついてしまいました。バッハの鍵盤曲もオリジナルはチェンバロのものですが、最近はほとんどがピアノで弾かれています。現代人の耳はそれに鳴らされてしまったのか、ピアノで聴く方が自然に聞こえます。ピアノはそもそもピアノフォルテと呼ばれ、音のダイナミズムを拡大したことが売りでしたから、表現を豊かにする楽器です。クープラン のチェンバロ曲はピアノで弾く方もいますが、ピアノだと滑らかすぎます。チェンバロは強弱の幅からしたピアノにはるかに及ばないものです、二種類しか音量を選べないのですが、チェンバロの音が持っている炸裂するような緊張感はピアノからは得られないものです。クープランはチェンバロで聴くべきです。
チェンバロの音は直立していて、踊るような動きです。ピアノはレガートで歌うようなところが気持ちよく、滑らかであり、激しくもありと表現のためのコントラストはチェンバロの比ではありません。しかしチェンバロの音には凛々しさがあります。
それは弦をはじくことから生まれるものだと思います。ピアノはハンマーで弦を叩きます。その意味ではギターもリュートもチェンバロに近い物を感じますが、指で直接弦に触れるという利点はチェンバロにはない特徴です。特にリュートは指の腹で弦を弾きますから、ライアーに限りなく近いと言えます。ポール・オデットの演奏はいつも参考にしています。
ギターではセゴビアの深い音に感動します。最近はギターの製造方法が少し変わってきていて、共鳴板に工夫を凝らし(ダブルトップと呼ばれています)、よく響くように作られています。しかし楽器が良く響くようになる、表現力が広がるというのは、一つの利点ですが、音楽の本質とは離れていると思うのです。そんな流れにあるのと関係するのか、最近は女性ギターリストが数多く台頭して新たなブームですが、そういう人たちの演奏からは刺激を受けるものが見当たりません。
この質問にあえて教則本的な書き方でなく、ライアーの音の楽しみ方を意識して書いてみました。