痴呆 無時間・無空間の中の私の存在

2012年8月31日

痴呆症になると記憶がだんだん無くなって行きます。アルツハイマーという病名が付けられることもありますが、老人性痴呆症とみなされる場合もあります。

原因は不明です。

 

記憶が無くなってしまう、そのことを考えると、どこか知らない国に連れて行ってしまわれる様に錯覚してしまいます。

そこで出会うものはみんな知らないものばかりです。

そこがどこなのか、何故ここにいるのか、みんなはどういう人なのか、何もわからないのです。

 

痴呆症のことは社会問題として語られます。周囲がどのくらい大変か、痴呆症に対しての医療的なアプローチはどうなっているのか、そのための施設とケアーは充分あるのかということです。

 

確かに世話をしている人にとって、子どもであったり、伴侶であったりの自分のことが解らないなんて、とても苦しいものです。そんな中でのケアーですから、一層疲れます。

ですから介護する人たちへのケアーも大切でしょう。それはよく解ります。

ですが、私は痴呆症になって生きている人のこともとても気になります。

 

記憶が無くなってしまうと、周囲との話しが合わせられなくなります。だれが、なにが、どこで起こったのかわからないのです。昔のことでも思いだせません。

痴呆の人たちはにこにこと相槌を打っていますが、自分がおきざりにされている悲しさをどこかにたたえています。

今目の前にいる人がだれなのか、今いるところがどこなのか、何故ここにいるのかがわかりません。

自分がだれなのか、自分がなにをして今まで生きてきたのかすら解らなくなってしまう人がいます。

これってどういうことなんでしょうか。

自分が生きているということを痴呆の人はどの様に感じているのでしょうか。

 

友人のお父さんは施設に預けられて一人で生活しています。家族で、日曜日に、預けられている施設を訪れ時のことです。

一緒に散歩に行き、途中でお茶の時間を取って施設に帰って来て自分の部屋に入ったとたん、「ああくたびれた」と言ってさっさとベッドに潜り込んで、布団を頭までかぶってしまうのだそうです。

その友人のお父さんの話しを聞いた時、ふと頭をよぎったことがあります。

痴呆の人たちは布団と自分の肌のすれ合うそこにしか存在を感じていないのではないかということでした。

そして何より安心できるのはベッドの中なのです。そこが一番充実した空間です。

外の時間から遮断された自分のベッドの中、そこが唯一の居場所です。

 

別の人の話しは、生まれてからずっと同じ家に住んでいるのに、事あるごとに「早く家に帰ろう」と何度も言う老人です。

その家しか知らないはずなのに、どこがその人の家なのでしょうか。

きっと自分の居場所が無くなってしまったのです。だからどこにいても「家に帰りたい」と思ってしまうのです。

淋しすぎます。

 

自分が生きてきた時間もわからなくなってしまいます。

誕生後の日に「今日で八十歳だね」と言うと「お前だろう」と返事が返って来ます。

自分の人生のことも記憶から消えてしまいます。

「長い人生だったね」と言うと「そんなことはわからん、どうでもいいよ」という返事です。

好きだったケーキの味は覚えているようで、「おいしい」と言って、でも周囲に共感を求めることなく一人で食べているそうです。

 

記憶が無くなってしまうというのは、当人の立場に立ってみると、限りなく淋しいことです。

どこにも救いの手を差し伸べられない淋しさです。手厚いケアーも、その人たちの傍を他人事のように過ぎ去って行きます。

それはケアーする家族の人にとっても虚しく、辛いことです。自分たちのやっていることの手ごたえが少なすぎます。

しかし本人はもっと辛いはずです。

自分が生きている周りが自分とまったく関係のない人、ものばかりなのですから。

 

言葉が失われないのは不思議です。

トンチンカンな返事しか返って来なくても、とりあえずは会話的には何かが成立しています。

 

記憶というのは、器です。料理に使う時のボールや鍋あるいはバケツの様なものです。

その中に体験したことがたまって行きます。思いだすというのはそこにたまったものを臨機応変にとりだして周囲と対応しているのです。

思いだせないのでしょうか、それとも器に穴があいているのか、壊れているのかして、記憶がこぼれおちてしまったのでしようか。

 

それでも痴呆の人たちには、自分意識はあるようです。本当のところは本人に聞いてみないとわかりませんが、傍から見ているかぎ、ある様に見えます。

自分とは、自分とは何なのか、随分長いこと難しく哲学されています。

それぞれの時代に見合った答が見つけられている様に思います。

ドイツでは老人性痴呆が正規の発表で120万人と言われています。それは認定されている人の数ですから、実際にはその2倍はいると言われています。

痴呆の人を含めた現代に相応しい自分を哲学しなければなりません。

 

痴呆の人を見て、あるいはその人たちのことを話しに聞いて、私たちとは別の形の、何かしらの自分という手ごたえがあるということを感じます。

彼らはわずかながらも手ごたえを持っているようです。

布団の中にもぐってしまう人がいます。

家に帰りたがっている人がいます。

それは何なのでしょう。

 自分という手がかりがほしいのではないか、そんな気がします。

 

私たちも本当は私ということに関して、痴呆の人と同じ程度の僅かな手ごたえしかもっていないのではないか、そんな風に最近随分考えます。

私たちにとっても、自分というのはその位かすかなものなのかもしれない、そう思うのです。

私たちが私、自分と言っているのは、記憶に染められたものを言っているだけなのかもしれない、そんな風にも思います。

 

かすかな自分は、記憶の器なくしても存在できる特別なものに違いない。

特別なもの。

それを私たちはまだよく知らないでいます。

 

西洋的には私、自分、自我というのは地上で生きる中心です。

しかし東洋的は私を空、とか無と捉えます。そして空っぽになればなるほど偉大だと考えます。痴呆の人たちの私のあり方を見ていると、東洋的な空なる私、無なる私によく似たものを感じます。そしてそれは単なる偶然ではない、そんな気がしてならないのです。

西洋的な私は記憶の中の私なのかもしれない、それを超えたとこにある私の姿は、東洋的な理解の仕方の方がしっかりと把握している様な気がしてならないのです。

痴呆の人たちは、これから始まる新しい私のあり方を先取りしているのではないか、そんな気がしてならないのです。

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