会話の神秘 その4

2011年2月16日

会話がマニアル化したら、それは実につまらないものです。
こ う話すとこうなるという形が出来上がっているので、その通りに間違いなく話を進める訳で、それでは生きた会話にはならないのはわかりきっています。 使う言葉が決まってきますから、そういうのは聞いていてすぐに飽きてしまいます。でも人と話すことに自信のない人は、そういう形にとらわれることで却って 安心して話が出来るのかもしれません。社交儀礼にとわらをれている人も同じです。

 

生きた会話には、辻褄を合せるということなど全く必要ないものです。その人の馬鹿を丸出しにすればするほど生き物になります。どうして今の人たち はお利口さんになりたがるのでしょうか。そういう教育がされているということでしょうか。そつのない生き方なんて糞食らえです。人間ってもっと悩みなが ら、愚かなものでいいと思うのですが、違いますかね。

 

そんな辻褄を合せるような生き方をしていたら、いつか自分の芯がさびてしまいます、といいたいのです。
生 きた会話というのは腹を割った所から生まれるものです。裸の付き合いというものです。そうすると会話が生きてきます。その上、自分が生きてきます。自分が はっとする様な言葉がその時には生まれるものです。この意外性が生きた会話の特徴です。マニアル的に計算した言葉からは自分がはっとする様な言葉は生まれ ないのですから、話すだけ時間がもったいないということではないのでしょうか。そんな会話なら一人でいるのと同じです。

 

私はいつも会話で は馬鹿なことしかいわないことにしています。お相手さんがそれにどう乗って来るのかが楽しみだからです。心から笑ってくれる人と、お付き合いで笑ってくれ る人と、そういう話にはこういう風に対応するのですと教えられて笑う人と三種類ありますが、やはり心から笑って私の馬鹿にしっかりと付き合ってくれる人と 話をしていると、生きていることの喜びを感じます。

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