何故音楽には調性があるのか。ハ長調について。

2020年12月29日

音楽と楽譜は切っても切れないもののようです。ところが有名な音楽家の中には、特にジャズの分野に多くみられることですが、楽譜が読めない人が随分います。ちなみに美空ひばりさんも楽譜が読めなかった一人です。

この楽譜ですが、確かに随分古くからあるようです。これがどのように発明され今のようになったのか調べてみると、多分とても面白い音楽の歴史を紐解くことができる思います。いつか時間を作って調べてみたいものです。

そのことについては別の機会に譲るとして、楽譜についているシャープとフラットの話を今日はしたいと思います。

大抵どっちかが、一つだったり、二つだったり、あるいはいくつか付いているのですが、子どもの頃は「なぜ何もついていないハ長調ではいけないのか」と不思議で仕方ありませんでした。子どもの頃なんて言っていますが、実は相当大人になるまで、この不思議が解決したわけではなかったのです。

 

解決したのはプラハに旅行した時でした。

まだ政治的に東西の壁が世界を二つに分けていた1980年、復活祭の休暇の時に、当時のチェコソロバキア(今はチェコ共和国)の首都プラハに出かけました。四月には珍しく汗ばむほどの日に出発して、六泊して、帰りは雪の吹雪く中を帰ってくるという四月ならではの、日々激変する中の旅でした。バスツアーで丸一日プラハの周辺を見て回った以外は、プラハの街を地図を片手に縦横無尽に歩き回りました。おそらく三日間でプラハの市街は網羅したと思います。

チェコソロバキアは1968年に当時のソ連が侵入して共産化するまでは西側との接触がかなりあったので、英語はもちろんドイツ語を話す国でしたから、ドイツ語を話してくれる人がたくさんいて助かりました。

 

さて、くたくたになるまで歩き回って、町の中央広場のあたりに帰ってきて、今回の旅行ですっかり見慣れた景色に囲まれながらぶらついてる時のことです、音楽のようなものが聞こえるのです。どこかで街の音楽師が演奏しているのかと見回してみましたがそれらしき人はいません。気にせずにまた歩き始めたのですが、しばらくするとまた音楽が聞こえるのです。

音楽とは言ってもなんの曲というような具体的な音楽ではなく、響きが連なっているようなだけで、曲として出来上がった音楽ではないのですが、その時の私には十分音楽でした。

しかもそれがニ短調の響きなのです。もしかしたら思い込みで「ニ短調」と言っているだけで、本当にそれがニ短調だったのか調べる術はありませんでした。絶対音階の持ち主ではないのです。ところが、偶然というにはできすぎた話で、しばらくゆくとレコード店に出会わしたのです。お店に入って「視聴できますか」と聞くと二つ返事で「OK」で、早速ニ短調のものが演奏されているレコードを選んで聞きました。シューベルトの弦楽四重奏曲「死と乙女」とモーツァルトの弦楽四重奏15番ニ短調です。二つを聴き終わって、さっき聞こえていた響きがニ短調だったことを確認できたことはなんとも嬉しい体験でした。嬉しさに満たされ、歩き疲れもあって、お店に長居してしまい、気がついたら六枚ものレコードを買っていたのです。ちなみにLPが一枚300円しない値段だったからです。

さて後日談なのですが、プラハはモーツァルトがオペラ「ドン・ジョバンニ」の初演をしたところだったのです。ちなみにこのオペラの基調はニ短調です。

 

そのとき以来調性というのは偶然のものではなく必然性があって、作曲家はある作品をある特定の調で作曲するんだということを確信したのです。それからは音楽の調性には気を配るようになっています。プラハに感謝です。

 

その後も、旅行すると、いつもではないのですが、街特有の響きが聞こえてくることがありました。その中で一番強烈だったのはイタリアのベニスでした。ベニスには橋がたくさんあって、その橋を登ったり降りたりしながら街を歩いているときにイ長調が聞こえてきました。

 

最近は土地から聞こえてくるものの他に、人とすれ違ったときになんとなく調性を感じたりするようになっています。いろいろな調整に出会うのですが、ハ長調に出会うことがほとんどないのです。シャープもフラットもない一番単純そうに見えるハ長調が現実には一番少ないのにはいささか驚いています。昔は全部ハ長調でいいじゃないのかと思っていたので、実際にハ長調に出会うことが少ないことが不思議をでなりません。

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