レシピは便利で危険
シュタイナーは人智学を「料理のレシピのように理解しないで欲しい」と言っているのですが、なるほどうまいことを言うものだと感心しています。
これを読んだとき、精神的なものにとっても油断するとレシピ的なものに陥りやすいと思いました。余程気をつけないとついやってしまいそうです。画一化と言うことです。
レシピの歴史は驚くほど古いものです。そもそもレシピという言葉は医者が薬剤師に渡した処方箋のことだったそうです。最近のセンセーショナルなレシピにまつわる話は百年ほど前のフランス料理のレシピの本です。フランス料理が世界的に広まったきっかけは天才的なフランスのコックさんが優れたレシピ本だったのです。それが大ベストセラーになったことで、世界中でフランスの有名コックさんの味が楽しめるようになってフランス料理が人気者になったのです。広めるためにはレシピが有効だという証です。
なぜシュタイナーはレシピを嫌ったのでしょうか。レシピはそんなに悪いものだとは考えられないのです。レシピは便利なもので、ある料理を初めて作る人間でも、レシピどうりにすればそこそこのものができてしまいます。例え日本食しか知らない人でも、フランス料理をレシピ通りにすればなんとかなります。もちろん材料を揃えたりするのは大変ですし、慣れない料理法と格闘しますからその時の台所の混乱は想像できますが、お皿の上にはちゃんと名前のついたレシピ通りの料理が運ばれてきます。
もしかするとシュタイナーは一人一人が自分の人智学を作るべきだと考えたのかもしれません。聞こえはいいですが、各自がそれぞれの人智学をと言うことになれば、それはそれで危険がいっぱいで、「我流の人智学』「片想いのシュタイナー」を作ってしまうでしょうから、「私の人智学」「私のシュタイナー」を振り回す喧嘩になることは必定です。
レシピ通りに人智学を理解するも危険なことですが、受験勉強のように答えを見つけるようにシュタイナーを学ぶことも画一化が生じる危険性を含んでいると考えています。そこに権威的な力が働けば、鶴の一声が通用するシステムの中で非健康的な人智学になりかねません。だからレシピ的な生き方は避けるべきですが、レシピ的でなく生きると言うのは容易では無く、豊かな判断力と、豊かなファンタジー、そして強い精神力がないと持ち堪えられないと思います。
シュタイナー教育の普及を考えるとレシピ的にするのが一番効果的なわけです。ところがシュタイナーはシュタイナー教育を他の国に作るには、その国にふさわしいカリキュラムを組まなければならないと言い反レシピ的な態度を表明しています。文化というのはレシピ的なのでしょうか、それとも半レシピでしょうか。伝統文化というものを外から見ていると、あたかもレシピ通りに受け継がれているものと思いがちですが、伝統文化ほどレシピに陥らないようにと努力しているところもないのです。お能は個人で練習したものを舞台に載せるのですが、舞台の上では毎回初演と言ってもいいアドリブになのです。毎回が伝統的な世界観に支えられた真剣勝負であり、四百年間アドリブでつなげてきたというのは驚異的です。もちろん個人的には極めつくすまで練習しているのですが、舞台では毎回初演のようなもので、即興なのです。その即興から生まれる緊張感が伝統をつなげてきた力だと思います。
世界は今グローバルという合言葉で経済中心の世界共通化が進み、民族、国家、そしてそこに根付いた文化を根こそぎにしようとしています。非常に危険なことです。人間から文化をとってしまったら、人間は枯渇します。枯れてしまいます。人々の顔から表情が消えてしまいます。人間を機械とみなすなら文化は余計なものですが、人間は機械とは違い、無駄に見えるものを栄養とする存在なのです。今回コロナ騒ぎでこの無駄がいかに人間生活に潤いをもたらし、精神的に支えていたものかがよく分かったはずです。人間の機械化が進めば、つまりグローバル化ですが、社会から無駄が省かれ、合理的に徹し、無表情なものの集まりになってしまいます。それこそレシピ通りの人間の集まった社会です。
教育は文化になるべきものだと考えています。教育と文化、この二つはどのようなつながりを持たせるべきなのでしょう。教育を優先的に考えるとそこではどうしてもメソードが表に出てきます。最近の教育は、私の目にはメソード競争のようなもので、表面的に見えるのです。教育の本質はメソードにあるのでは無く、教育という仕事に表情があるかどうかだと思います。教師と生徒の間に血が通っているかどうかということです。どの教育にも本来は顔があって、その顔から表情が生まれているのですが、メソードで終始してしまうと効率と能力が主流になり、無表情になってしまいます。ですから教育を文化論にしてしまいたいのです。せめて文化としての教育までに止めるべきです。文化だということは、無駄がた沢山あるということです。合理的な教育ほど危険なものはないということです。
日本にシュタイナー教育が紹介されてから四十五年が経ちます。実践に移されてからは三十年以上が経ちます。日本のシュタイナー教育という顔がそろそろ生まれていいのではないのでしょうか。それがとても楽しみです。