芸術理解とは共感体験

2021年1月6日

芸術作品にとって必要なのは共感です。今日では新聞や雑誌で批評というものが制度化し、当然のように定着していますが、私は以ての外だと思っています。批評、批判などは芸術にとって百害あって一理なしです。芸術に客観的基準が入り込んできて、芸術が学問の一旦を担うようになって、何かが進歩したとでも言うのでしょうか。せめて理解までに留めて欲しいものです。理解も寄り添うような理解は大いに歓迎されていると思います。芸術作品だって一人ぼっちでいるよりも理解してもらいたがっていますから。

私はミヒャエル・エンデさんの言葉に深くうなづいた記憶があります。

私たちがコンサートホールで音楽を聞いてホールを後にする時、美術館で絵を見て美術館を後にする時、私たちは入る前より賢くなって出ることはないというのです。共感とか理解とは心情告白の一種ですから、賢くなることとは違うのです。せいぜい自分が生きていることを確信するところまでです。もちろん私たちの得意な「答えを出す」ことでもありません。絵を見ているときはただ見ているのがいいのです。余韻の中で何かを体験している、これが芸術にふさわしいものかもしれません。

 

今日の学校教育が教育という名のもとで行なっている教育を考えると、それは芸術を理解すると言うのと最も離れているもののように見えるのです。いつも答えを用意して、聞かれたら答え、それによって点数がつくわけですから、理解に必要なプロセスが備わっていません。更にそれを小さい時から何年も押し付けられたら、答えを出す人生しか知らなくなってしまいます。そして最後は自分の人生に答えを出して死んでゆくのでしょうか。私は未だ答えのでた人生などには出会ったことがないのですが。

理解とはまずは目の前にしているものとなんらかの取っ掛かりが掴めたときに始まります。自分でも気がついていなかった関心を呼び起こされるのです。ハッとする瞬間です。私が教育の中で一番濃い物と考えているのはその取っ掛かりが作られた瞬間です。その取っ掛かりさえ掴めるようにしてあげればあとは子どもの方で勝手に深めてゆきます。理解は深めるという言い方をしましたが、その関係が密になってゆく過程を楽しむことです。

芸術という分野は理解を深めるのに一番向いています。演劇なら舞台を見ているときに理解しなくてもいいのです。後日あれはそう言うことだったのか、と言うよう理解の仕方だって理解だからです。音楽も同じで、会場ではただ聞いていればいいのです。プログラムを一生懸命読んでお勉強をしても芸術というのは理解できる訳ではないのです。却って余計な知識が邪魔をして理解が妨げられてしまうかもしれません。絵だってただ見ていればいいのです。

ところがそういう理解の仕方は、今日の社会では認められていません。会社などではぼんやりしていると「きみ分かったのかね」と上司に怒鳴られてしまいます。イエスかノーの世界です。社会に出ればこう言うシステムの中で生きるわけなので、学校教育の中で社会の縮図を子どもたちに押し付ける必要はないと考えてはいけないのでしょうか。そんなことをしたら社会で落ちこぼれてしまうと懸念する声が聞こえますが、今の社会は何が起こるか分からない未知に向かっているのです。そこでは正しい答えはないので、想像力からの工夫が要求されています。それは答えを出して点数を競う教育からは作られない能力です。教育は芸術のように答えのない中で奔放でなければならないのです。

最後に余韻のことに触れたいと思います。余韻は簡単に言えば記憶の世界で、思い出の中に浮かんでくる舞台の光景に浸ることです。一度目の前から消えて思い出の中に浮かび上がってくるものは、当日見ていた時よりも鮮明だったりするのです。そしてそこに自分が必要としている生きる力につながるものが感じられたりするのです。もちろん極めて主観的なものです。

これが芸術的理解というもののような気がします。芸術を理解するには時間がかかるということです。しかしこの時間は外から見れば計かれますが、内側から見たら停止している時(とき)というものなのです。

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