声に聞くユーモア、レオ・スレーザークの「夜と夢」

2021年1月13日

レオ・スレーザークと言ってわかる人が少ないことは知っています。こんな知る人ぞ知るような歌い手のことを書くのは忍びないのですが、彼は私がドイツ歌曲を歌った歌手の中で一番感動した歌い手だと言うことで紹介したいと思います。幸いYouTubeでも検索できるので思い切って紹介します。

一世を風靡した超一流のテノールです。古今東西、どこを探しても彼のように歌える人はいないと太鼓判を押します。私にとって、シューベルトを歌わせて、彼の追随を許す者はいないと断言します。評価する人は最高の賛辞を送って褒めちぎるのですが、そうでない人は今更こんな歌い方は古臭いといい、俗な節回しでヤクザな歌い方だといいます。もちろんこっ酷く貶す人もいます。それでも私には最高の歌い手です。

最近は声を楽器のように訓練することが支流ですから、声が楽器のようになってしまいました。声は楽器とも機械音とも違う有機的なものですから、本当の声に出会ったときの喜びはひとしおです。発声法で作られた大抵の声は作り声に聞こえます。声学的に発声を学んだ声ですが、実は技術の方が聞こえてきて、歌がほったらかしになっていたりします。

スレーザークの歌を聴いていると思わず微笑んでしまいます。ドイツの歌曲を聴いている時にこんな経験はスレーザーク以外では起こらないことです。皆さん真面目に歌い過ぎているのではないかと思います。

YouTubeで「レオ・スレーザーク」と検索すれば、Nacht und Treume(夜と夢)、Litanai(連禱、祈りの歌)Du bis die Ruh(なんじこそ憩い)などが出てきます。まず何よりもNacht und Trueme(夜と夢)を聴いてみてください。

スレーザーク自身、シューベルトの歌曲を特別なものと感じていました。「ミサをあげるような気持ちで歌う」と彼の自伝で書いているほどです。言葉通り確かに深い祈りでシューベルトの歌に向かって、心を込めて丁寧に歌いあげます。そこにはホットできる音楽空間があるのです。「リタナイ」という祈りのうたは、日本で言えば連歌のような作りの、ある詩の形が繰り返され、連綿と祈りを捧げるのですが、スレーザークの歌には、10世紀11世紀頃のヨーロッパの宗教画のような、ユーモラスな明るさがあって、詩に歌われている人たちは、彼とシューベルトに祈られて本当に成仏しそうな感じがしてきます。

スレーザークは特異な歌い手ですから位置づけは難しいですが、歌曲の歌い手としては唯一の例外と言った方がいいと思います。経歴も特異です。もともとは園芸家で、音楽学校とは無縁です。街のコーラスで歌っていたところをスカウトされ、頭角を表し、マーラーに見出されウィーンのオペラで歌っていました。メトロポリタンにも招待されトスカニーニの指揮でも歌っています。

彼の歌う「夜と夢」は夢の中を、彼の歌声といつしょに彷徨っているような気分になります。実に不思議な体験です。気持ちの良い無重力状態の中を彼の歌声とともに彷徨うことができるのです。このように歌えるのは、歌の技術ではなく、スレーザークの心の豊かさからです。歌が彼のように聞き手を掴むことは、ほとんどあり得ないことだと思います。歌を音楽として表現しているなんて言う技術的なものではなく、歌を、音楽を具現しているのです。歌になりきつていると言ってもいいのかもしれません。歌の神様とでもいいたくなるような姿が目の前に浮かんできます。

 

コメントをどうぞ