声のこと その二
大きな声はうるさい、これはみんな知っています。
子どもの声というのはたいてい大きな声ですから、「静かに喋りなさい」とお母さんから叱られているのをよく見かけます。
喉に青筋を立てて懸命にお母さんと言いあいをしているのにも出会います。
声には自分の居場所、立場を他の人に知らせるという役目があるからです。
動物もほぼ同じです。ただ動物の場合には声は求愛の儀式、プロポーズに欠かせないものです。
声は自己主張の道具です。
大人になっても自己主張の強い人は大きな声です。大きいというよりもうるさい声という方が近いです。
子どもでも小さな声の子どもがいます。
シャイで、引っ込み思案でという性格のお子さんの声は小さく、か細いです。
また体の弱いお子さんの声も小さいです。自分に自信が無いのです。
これは自己主張と声の関係から説明できます。
大人になると声は小さくなります。
ただし一般的にということで、子どものまま大きな声でがなりたてている人もいます。
成人すると声が小さくなる、そこには自己コントロールが働いています。
大きな、周りのみんなに聞こえる様な馬鹿でかい声を出しているのが恥ずかしくなるのです。
子どもの時そのままの大きな声の人は周囲に無神経ということです。
自己コントロールというのは隠れた羞恥心です。
自我が目覚めて来ると恥ずかしいという感情も芽生えます。
どちらが先かコロンブスの卵と同じです。鶏が先か卵が先かということです。
思春期を過ぎて声に落ち着きが出てきたら、大人に近づいているのです。
前回の文章の中で「声は立っている」ということが出て来ました。
声は立つのです。まっすぐ、直立です。木の幹と声というのはドイツ語では同じ起源の言葉です(声はStimme、幹はStamm)。
立つためには内的な力が必要です。
内的な力は精神的なものです。自立しているということです。
精神的に自立してくると、安定してきます。声も立つことで安定感が生まれます。そして声は静かになるのです。
小さい声を賛美しているのではなく、静かな声を賛美したいのです。
音量の問題ではないのです。
声の質の問題です。
声が静かになると澄んできます。
澄んだ声がよく通る声です。
大きな声がよく通る、遠くまで聞こえるというのは勘違いです。
力任せで出した声は、物理的な振動が伝えるところまでしか届きません。
透明な声は、音量的には決して大きくないのですが、よく通ります。
これに関しては何度も講演会で実験済みです。
何故でしょう。
それは自立した透明な声の中に物理的なもの以上のものが作用しているからです。
物理的なものというのは物質的なということです。
その声は超物質的です。脅かすわけではないですが霊的です。
人間が立っているというのはそれだけでとても霊的なことなのです。
人間の声に言葉が宿ったということは、人間の声は霊的なものだからということです。