二つのハイドンのシンフォニー
かつてクラシック音楽の世界で「コレギウム・アウレウム」と言うアンサンブルがありました。1960年代の初めに設立され、ほぼ20年ほど演奏活動を行っていました。
演奏する楽器が弦楽器は18世紀のオリジナルなもの、管楽器もその当時のレプリカを使用して、バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンを中心に世界を股にかけ演奏活動を行い、多くのレコードを録音したアンサンブルです。
当時は随分人気を博したもので、古い楽器の響きを初めて耳にした聴衆からは暖かく迎え入れられたのですが、古楽の専門家筋からは、演奏のスタイルがまるっきし現代風で、しっかりとした考証がなされていないものだと言われ、ついには解散に追い込まれてしまいました。
ちょうど私が音楽を聴くようになった時期に彗星のように現れて一世を風靡していたので、ラジオなどても随分流されていましたし、レコード店でもよく見かけました。有名な交響楽団の響きと比べてとても新鮮で、個人的には好きでした。
彼らが解散する前にドイツに渡ってしまい、長らくこのアンサンブルのことを聞かなかったのですが、音楽好きの人たちの集まりでこのアンサンブルが解散したこと、特に解散の経緯について詳しく耳にし、愕然としたことを覚えています。
最近は古楽の演奏が盛んで、楽器はもとより、演奏スタイルもしっかり学問的な考証に裏打ちされている演奏集団が随所にあります。彼らの演奏は確かにコレギウム・アウレウムのものとは違い、使用している楽器はもちろんのこと、しっかり時代考証をしたものなのですが、私はコレギウム・アウレウムの演奏が懐かしく、大急ぎで古レコード店で探しては買い集めました。そして聴いてみると確かに今の古楽演奏集団とはビブラートが効いていたりと違うのですが、勿論私的にはノスタルジックな感傷も混ざっているのでしょうが、なんとなく落ち着くのです。却って学問的に神経質にならない伸び伸びした演奏に共感が持てるのです。
かつての東ドイツで指揮をしていたクルト・マズアの指揮でハイドンを聞きました。彼は亡くなって五年になりますから、もちろんYouTubeでです。シンフォニーの61番です。ベルリンのラジオシンフォニーを1970年に指揮していました。この指揮者はとても重厚な、厚みのある指揮をすることで有名です。人間的にも存在感のある人で、東西の壁が崩壊する時に東ドイツの人たちの心の支えとなった六人の一人としてもよく知られています。こうした人間性に支えられた指揮からはその指揮者の人となりが響いてきます。ハイドンの精神に触れるような名演奏だと思いながら聞きました。学問的な考証や、楽器の選択は丸々現代風ですが、そこには紛れもなく純粋で透明なハイドンが響いていました。ハイドンを初めて聞いたような喜びを味わったほどです。
この演奏を聞いた後、同じシンフォニーを古楽の人たちの演奏で聞いたのですが、残念ながら音楽家ハイドン、ハイドンの人となりにたどり着くことができませんでした。確かに響きは古い楽器から生まれる古色蒼然としたものですし、テンポ、解釈なども考証された上で演奏されているのでしょうが、マズアの時のようにハイドンに出会うと言う音楽体験はなかったのです。
そこで思ったのは、音楽の本質は響きだけで表されるものではないと言うことでした。響きはもとより物質的なものなのだと言うことでした。音楽はそれ以上のもので、つまり精神的なもので、演奏する人たちの人間性に裏打ちされた音が聞き手を納得させるのだと言うことでした。音楽の本質は音だということです。音に込められた人間性だということです。
追伸
最近の古楽の演奏傾向に変化が生まれているということを聞きました。考証にこだわることも、演奏技術やスタイルもおおらかに解釈されるようになっているということです。もしかしたら新生コレギウム・アウレウムがもう何処かに生まれているのかもしれません。
YouTubeの検索は次のとおりです
Haydn: Symphony No.61 – Berlin Radio Symphony Orchestra /Masur(1970)