成長とは
語学の勉強でよく勧められるのが、何冊も違った参考書をやるのではなく一冊の参考書を何回も読み直すことです。二回目、三回目の時に以前わからなかったことが分かるようになったという実感は確かに力です。何が分かるようになったのか、何が前回は分からなかったのか、どんな変化が自分の中に起きたのかと言う繊細なところは自分でしか捉えられないものです。そこを自分で自分自身に言えるというのは確かに力になりそうです。
私は以前のブログで一人の人物の伝記をいくつも読むというお話しをしました。同じ人物の伝記を何冊も読むなんてあまりしないことだと思います。お勧めの外国語の勉強の仕方とは一見逆のことをやっていたように見えます。しかし、しつこくモーツァルトにこだわっていたために、逆に一冊の参考書を何度も読むのに近いことをやっていたような気もします。モーツァルトが少しずつですがクリアーに見えてくるのです。
両者に共通しているのは繰り返しです。同じことを繰り返すなんて馬鹿げていると言われるかもしれません。そんなの時間がもったいないとも言われそうです。多くの人はまずはマンネリになるイメージを持ちます。ところが繰り返すと深まるのです。物作りということを考えると、一回でできることの方が珍しいことです。私の昔の同僚のご主人が老舗の洋服屋さんで、仕事が終わると、リフレッシュのためにいつも二時間ぐらい自分の工房にこもって好きなものを縫うと言うので、何ヶ月かの間毎日夜になると私もその工房に行きミシン掛けを彼から習っていました。ミシン掛けは縫うよりもほどく方に時間を取られるものだとそのとき知りました。ものを作るときには失敗が必ず付き纏います。それを億劫がると物作りは拷問にかけられたような気分になるものです。しかしこの失敗の繰り返しが味わい深くなると上達している証です。繰り返していると前やったことに否が応でも出会います。前やったのも自分で、今またやっているのも自分です。どっちが本当の自分かは分かりませんが、過去の自分は、克服された自分と言えるのかもしれません。
ただ不思議なのは、前回と今回の間に丁寧に復習したり、たくさん練習したのかというと、何もしていなかったりするのです。復習も練習をしていないのに上手くなることが有るのです。運動選手たちはサボりバネなどと言っています。その間に横たわっている時の流れの仕業です。時の流れについて私たちは知らないのです。ただ流れているのではないということです。それは、時を時計で計り時間としてしか把握できなくなった現代人には想像できないかもしれません。時には中身があるのです。私たちは生まれてから死ぬまでいろいろな年齢を生きます。エポックというものです。乳児期、幼児期、学童期、思春期、社会人としての出発、社会から影響を受けながら社会へ働きかける時期、若手を指導する立場につく年齢、リタイヤーする時期、初老、高齢者など色々な言い方がされるわけですが、全部同じ一人の人間です。これは時間的位相です。一つのエポックにはそれなりの意味があるということです。
一人の人間を角度を変えて見ると別の人に見えたりします。私がモデルになって何人かの人が場所を変えて私を描いたとします。角度によって随分ちがう仲正雄のポートレートになるはずです。しかし全部仲正雄です。これは空間的位相です。
人間は付き合う人によって違った印象を与えています。極端な場合はいい奴だよと言ってくれる人もいれば、騙されないように気をつけなくちゃだぞ、と言う人がいたりするかもしれません。どれが本当でどれが嘘かと言うことではなく、アプローチによって異なると言うことです。対人関係による位相です。
一体人間は成長するのでしょうか。
作曲家の武満徹が「私のどの曲が気に入っていますか」と聞くと、だいたい「ノヴェンバーステップですという答えが返ってくるのです」と言っていました。それは彼の処女作です。そのたびに彼は「一体自分はあの後何曲も作ったはずなのに、初めの曲が一番聞かれると言うことは、私は全然成長していないと言うことなのだろうか」とがっかりしていたそうです。
子どもの成長はともかく、成人した大人の成長は外から、つまり他人の目にはわからないものです。
子どもは何かができるようになることが成長ですが、老人は何かができなくなることが成長というパラドックスが成長にはあるような気がしてならないのです。
自分は成長したのだろうか。それにはどう答えたらいいのでしょうか。
生きていることの喜びを感じることが、特に深く感じることが成長の証ではないか、そんな気がします。