俳句のこと。季語のこと、四季のこと。

2021年2月6日

俳句は世界で一番短い詩と言われています。

短さが強調されても俳句の本質は見えてきません。

俳句の本質は、とは言ってもとりあえずは短さが目につきますが、実は季語なのです。

 

なぜここまで短くなったのか、なぜこの短さで居心地よくまとまるのか、興味のある方は俳句の歴史の本に当たればその辺のことが詳しく知ることができます。

私は小さな言語空間の中で、言葉がお互いに響き合い奥深さを作ることに注目したのです。

俳句は構造的には三本柱で作られます。そこには五七五の十七文字が収まり完結します。

多くの俳句が絵画の構図のようなもので構成されます。この三つが組み合わさることで、お互いに意味を膨らませあいながら壮大な宇宙を作るのが俳句の醍醐味です。

 

川柳も同じ十七文字ですが、こちらは絶妙な言葉遊びです。諧謔、トンチ、教訓という人生の中の出来事を器用に十七文字でひとまとめにします。言葉のセンスと人生と向かい合うセンスとがマッチしたとてもおおらかな世界です。

川柳が俳句より劣るとい考える人がいたらそれは大間違いです。フランスのエスプリとでもいったとても洒落た、粋な言葉遊びが川柳です。規則は十七文字以外にないので、何を書いても川柳ですから、人生の諸般が川柳に深みを与えます。川柳に人生の奥深さを教えられることがあるのです。言葉選びも自由で、俳句のように季語に縛られることがないので、初心者でもいい川柳が書けるのです。

 

俳句は十七文字のことが強調されますが、実は季語の遊びなのだということは忘れられがちです。四季が日本の自然の具体的な姿なで、抽象的な自然という考えはなく、四季が現実だったのです。季節の移ろいの中で自分の居所を見つけては楽しんだのです。

今は一年は四季からなっていてと教えられるので、四季を知識として知っていますが、昔の人が四季を身近なものと感じていたようには、感じられていないようです。四季は単なる季節の移り変わりではなく、四季の方が現実で、自然というのは人間を取り巻く力の総称、自然「じねん」だったのです。今日のエネルギーでしょうか。

俳句をするのには季語を覚えなければならないから面倒臭いというのは現代人だけの悩みで、四季を感じる自分をどのように表せるかのワクワク感が俳句を支えてきたのです。それどころかこの季語を使っていい俳句ができないかと思案したのです。

俳句は現代社会で非常に高く評価されています。この軽みが、心にしこりを持ったり、鬱になり閉じこもってしまった人たちと周囲の世界とをつなぐきっかけを作ってくれるからです。絵画教室よりも、クラフト教室よりも、俳句というなんの道具もいらないで作れるところが人気の要因です。私たちが一番気楽に使える言葉が道具というのは大きな魅力です。

しかしここで俳句と言われているのは基本的には川柳です。それはしょうがないことです。日本以外の文化の中で四季は季節の移り変わりでしかないからです。自然は自然です。四季はその変化する姿以外のものではないので、四季の中に自分を見つけ出すという作業は理解の彼方です。

しかし川柳はエスプリ精神が脈々と生きているので、世界中から喜んで迎い入れられて、大変重宝されています。実は日本でもだんだんこの傾向が強くなっているようで、自然を環境問題以外に感じる感性が失われているように感じることがあります。俳句を作る時に季語が面倒くさい障害になるようでは、日本文化の自然観がぐらついているということなのではないのでしょうか。

 

 

 

 

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