歌心の秘訣。またハイドンです。竹細工氏。

2021年2月8日

このところシューベルトを別にすると結構ハイドンのことを書いています。今日はハイドンは「竹の如し」という個人的な印象の報告です。

竹を割ったようなという言い方があります。真っ直ぐな人、正直者、曲がったことの嫌いな人を竹の性質に擬えたものです。並行した直線的な繊維の竹を割いた時に生まれる真っ直ぐな形から来ています。茶道で使われる茶筅(ちゃせん)などは自然界のものとしては竹以外のものからは出来ない、竹の特性を活かした工芸品です。

ハイドンの音楽は、この竹のようです。曲がったことが大嫌いな人のようです。竹細工からは美を究めた工芸品が数多く作られていますが、素材としての竹はまさにシンプルな直線です。ハイドンのシンプルさはこの竹

 

 

ハイドンと比べると、純粋と言われているモーツァルトですらちょっと捻くれ者に見えることがあります。ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナーとますます捻くれ者になってゆくようです。ではハイドン以前がみんな竹の如しの音楽家と言うと違います。バロック音楽は結構ひねくれています。バロックという言葉が「歪な真珠」という意味ですから、当時もすでに歪で曲がりくねっていると感じられていたのです。中でもバッハは相当のひねくれ者だと睨んでいます。それに引き換えヘンデルは竹を割ったようなきっぱりとした、ハイドンの良き先輩とでも言ったらいいようところがあるような気がします。

ハイドンは今日的な意味で芸術的とは言えない音楽家です。極端ない言い方をすれば雇い主の注文に応じて音楽を作っていたとも言えます。頭でコネ回している時間的余裕がなかったことが幸いして、音楽を生み出していたのです。思考的音楽でないと言うのは、ハイドン以降は価値のない音楽に等しくなりますから、ハイドンへの畏敬の念は失われてしまいました。音楽が思考の産物になってしまうと、音楽に打算が入り込んでいるように思えてなりません。素直さを失います。直接的にではなく回りくどいものになり、説明するもの、解釈するものに変わり、理屈の世界の嗜みになってしまいます。

 

心が素直な時に人間は何をするかと言うと、歌います。歌を口ずさむ時の自分を思い返してみてください。鼻歌でもいいのです、心は晴々として、屈託がなく、素直です。歌は心の一番素直な表現です。歌の歌詞は簡単なものほど心地よく、難しくないものに限ります。歌詞が理屈っぽくなると歌心は霞んでしまい、意味ばかりが目立つようになり、理屈の嗜みになってしまいます。

シューベルトの音楽は特に歌の中で竹を割ったような潔さがあります。彼の詩の選択は学者たちからは全く評価されていないもので、二流の詩人からのものが多いいと酷評されています。しかし歌の本質である、歌のメロディーと伴奏のマッチングは、精妙な竹細工が持つ美しさそのものです。単純な竹籤から絶妙の工芸品が作り出されるのです。歌とメロディーはお互いに関わり合いながら一つの世界を作り上げますが、実は二つの要素は驚くほどバラバラで独立しているのです。シューベルト以外の歌を見ると、伴奏はメロディーに寄り添っているものです。歌と伴奏がお節介に、必要以上に絡みあっていることがあります。歌と伴奏がこんなに別々のことをやっていながら一つのものとしてまとまりを持っていることはないのです。シューベルトは竹を割ったように、歌と伴奏の世界を二つに裂くことができ、それを竹細工のように組み合わせながら伴奏付きの歌と言う工芸品に仕上げるのです。これは音楽と詩に分かれた西洋音楽が再び一つに結びつくと言う離れ業だと言えます。西洋音楽は新しい未来を授けられたことになります。竹細工氏シューベルトの偉業です。彼は竹細工氏のハイドンの後釜と言えるのかもしれません。

 

 

 

コメントをどうぞ