類は友を呼ぶ。意識は無重力。

2021年2月9日

類は友を呼ぶというのは、70年人生をやっていると否めない事実だということがわかります。よく似た人たちが集まるというのは、良い悪いではなく、一番居心地がいいということなのでしょう。

私たちは似ている人同士引き合います。出身地が同じだからでしょうか。それとも趣味が同じだからでしょうか。それとも社会的境遇でしょうか。何が人をお互いに引き付け合うのでしょう。

そこで働いているのは意識です。

意識という言葉はできるだけ使いたくないと思っていたのですが、使わざるを得ないようです。使いたくなかったのは意識は説明できないものだからです。意識について話し始めると墓穴を掘るようなもので、迷路に引き込まれてしまうことを今までに何回も経験しているからです。

しかし人間同士が引き合っているという事実の前に、嗅覚という感覚的な話にしたくないのです。もちろんここで嗅覚と言っているのは何かが本当に匂っているわけではなく、喩えとして使われているだけです。この嗅覚が意識です。

意識というものがあることは分かり切っています。試しにここで意識という言葉を挙げて見ますが、すぐに気づかれると思うのですが曖昧な使われ方がされているので混乱しています。「意識過剰」、「意識的に」、「意識不明」、「意識の違いだから」、「意識が変わらないと」などです。考え方とか知覚という意味と同じように使われています。

「あの人とは意識が違う」のと「あの人とは考え方が違う」のはほとんど同じ意味ですが、ほんの僅か違います。

「意識が変わらなければ」も「考え方を変えなければ」もほとんど同じですが、違います。何かが違うのです。何がどう違うのでしょう。考え方というのは思考によって得られるもののことです。知的な作業です。一方意識は知的なものではありません。知的な働きは常に方向を示します。しかし意識はもっと力を抜いた自然体でいる時に見られるその人の為人(ひととなり)からのものです。無指向的です。あるいは以前のブログ(2021.02.05)で言ったように直感から来るものです。考え方の違いという時には力みを感じます。ところが意識の違いの方は力が入っていません。そのため深いところから来ているような感じがします。本質的なのでしょう。意識は思考よりも深いのです。意識の違いというのは、ある意味では変えようがないくらい深く、ほとんど運命的と言えるかもしれません。ある人に意識の違いを感じたらその人と別れなければならないでしょう。ところが、考え方の違いは話し合えば解決することもありうるものです。意識は無重力の状態の中に存在しています。だから触れることができないものです。思いは違います。重いので感触があります。意識はあるのに感触のない不思議なものです。

 

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