子どもらしさ、それとも幼稚

2021年2月12日

幼稚と言われたらどこかで笑われていると思った方がいいです。大人になっていない、大人気ないということなので言われたら軽蔑されています。ちゃんと大人になるのは人生では大事なことです。

ところが子どもでいることが求められることもあります。子どもでいるというのはキリスト教の聖書ではいいこととして書かれています。天国にゆくには子どもでなければならないのです。大人は天国に行けないということではなく、大人になっても子どものような無垢純真さを保っていなければならないということでしょう。

大人になる方がいいのでしょうか、それとも大人にならない方がいいのでしょうか。

 

この見方の違いには物質主義的な考え方と精神主義的な考え方の違いが顕著に現れていると見ています。

社会的にみれば、大人にならならなければならないわけです。経済的に自立して、社会的になんらかのポジションを持って生きることに努力します。そのために勉強をします。成績優秀な人は社会的に出世していい生活が保証されます。これらはみんな物質主義的に考えれば当然のことで、今の社会の仕組みは大方この考えに沿って組み立てられています。人間はその社会の組み立てのためのものとさえ言えるかもしれません。

しかし子どもでいることを奨励する精神主義的な考えに従えば、それとは別のところに人間を人間たらしめているものがあると考えるのです。キリスト教的に言えば「人はパンのみで生きるにあらず」ということで、ここからはキリスト教だけでなく、全ての宗教からの発言が影響力を持ちます。基本的には欲を捨てるのです。出世欲、金銭欲、などですから、物質主義的な考えとは真っ向から対立します。精神主義者たちは物欲を顧みないので、お金のことを言いたがりません。名誉欲も良くないものとみなされます。

 

唯物的に考えたら、しっかり大人になってお金儲けをしてお金持ちになって豊かに暮らすことはいいことです。しかし精神的な生き方から見ると、欲の突っ張った大人にはならない方がいいのです。無垢で、貧しいことが天国へ通じるからです。

 

この世的にしっかり人生にどっぷり浸かる方がいいのか、あるかないかわからない天国に行くためにこの世的なものを放棄するのがいいのかということになりますが、個人の選択に任されているものですから、ある日突然180度転換することもあります。私の父の学生時代の友人で職業軍人だった方が、ある日訪ねてきて、今は司祭をやつていると言っているを耳にしたときには、若い私は耳を疑ってしまいました。軍人と司祭が結びつかなかったからです。

後でだんだんと分かってきたのは、私たちの中にはどちらもいるのだということでした。どの傾向を生きるかはその人に任されたものです。その人の家庭環境などです。主義という言い方がされているので固定しているもののように見えますが、実は流動的なもののようです。また自分で決めているようで自分でも決めかねているものでもあるようです。

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