美しいものへの憧れ
最近何人かの人と話していて、一つ共通点があることに気がつきました。
それはコロナから生まれた極端なまでに屈折した社会状況からきているようです。
共通しているものというのは、大きくまとめれば「美しいものに癒やされる」「美しいものに憧れる」ということのようです。
コーラスを指導している方が、コーラスのメンバー達は以前はモダンな曲を希望していたのですが、ここ一年は、古いものをうたいたがります。古いだけでは曖昧ですが。そこに「きれいな」という言葉が添えられるというのです。
現代作曲家たちの不協和音でできている曲ははっきり拒否されるということでした。そのコーラスの指導者は「きっと日常生活が不協和音そのものだからではないか」と考えているようでした。
混乱した社会状況に中にいると、人間は心的に傷ついているのでしょう。意識して、あの人の言葉に傷ついたとかいうのではなく、今の社会のあり方に、この時代の抱える宿命に傷ついているのです。そんなとき、不協和音の、調和を乱すような響きに対しては、「もう十分」という拒否反応が出てしまうのかもしれません。
時代が平和でそれなりの秩序があったときには、挑発的な不協和音がが面白がられたのでしょうが、社会が混沌としているとき、その出口が見つからないで悶々としているときには、不協和音を楽しむ余裕は心の中に存在しないようです。
ふと、もう何度も繰り返していますが、悲惨な社会状況の中では上等な喜劇が書かれるべきだというノヴァーリスの言葉が頭をよぎります。彼は喜劇と言いますが、上等なユーモアと言い換えてもいいかもしれません。
日本を旅行しているときホテルで時々テレビをつけるのですが、大抵はすぐに消してしまいます。バラエティー番組は正直見るに堪えないものです。上等なユーモアの真反対の下品な笑いです。その笑い方は必ずどこかで人を傷つけているものです。そろそろそんなものから離れる時期なのではないかと思っているのは私だけではないと思います。
キレイな言葉が読みたくなります。詩でも、散文でも、和歌でも、俳句でもいいのです。心の中を響き渡るような言葉です。
久しぶりに百人一首を取り出して読んでいます。なんだかとてもいいです。心を調和させる言葉に飢えているのです。
私は最近よくハイドンの音楽を聴くのですが、その背景にはもしかすると、調和への微かな憧れがあったのかもしれません。