言葉を歌う時が近い将来に必ずきます
なぜ言葉を歌わなければいけないのですか、と聞かれるのですが、とりあえずは特に答えはないで、アルフレッド・デラーとレオ・スレーザークを聴いてみてください、と振ります。この二人ほど私の耳に言葉を歌えた歌い手がいないからです。答えになっていないのに一番具体的な答えだと思っています。
言葉は歌いたがっている。これだけはどんなことがあっても事実です。言葉が歌うのです。言葉に音楽をつけるのではありません。
詩を音楽で表現できるのかどうか。音楽は言葉に太刀打ちできないと思います。剣道を始めたばかりの人が剣豪と試合をするようなものでしょう。音楽は素晴らしい表現力を得たと言われています。実際にそうした豊かな表現が音楽の世界を支えているわけですが、言葉の前にはなす術がないと言うのが私の正直な感想です。音楽にできることをしっかり把握すれば案外明確なことのように思います。
言葉の表現の世界は存在、本質です。音楽的表現は言葉から見ると機能のようなもので、本質ではないです。音楽はBGMではないかと最近のクラシック音楽のラジオ番組を聴いていると思うことがあります。ただ流れているだけ、時間潰しのような放送に何度も出会いました。
言葉の偉大さが今の時代よくわからなくなってしまったのです。言葉は人間が生きていることそのものです。音楽は生きることを遠くからサポートしているかもしれませんが、生きていることを表現できる能力はないと思います。生きていることとはつまり、感情の中で起こる繊細な機微です。言葉は巧みにその機微に着いてゆきますが、音楽はその細やかに変化する道でハンドルが切り切れないでしょう。
音楽を否定しているのではありません。音楽は音楽の中で豊かなのでそれでいいのです。
もしかしたら音楽を過小評価しているのではないかと思っていらっしゃる方がいると思うのですが、そんなことはないと思います。ただ一つはっきりさせておきたいのは、言葉が過小評価されていると言うことです。今日言葉は用足しの道具です。それでは言葉について何か言っているうちには入らないです。言葉が可哀想です。もしかすると言葉の問題ではなく、人間の存在そのものが社会から過小評価されているのかもしれません。もしそうだとしたらそれは悲劇です。
二年前にノーベル文学賞の栄誉に輝いたカズオ・イシグロさんが、最近の小説家たちの中には他の言語に翻訳されやすいような平易な文体表現を使う傾向にあるというようなことを言っていましたが、文学も商売道具に成り下がってしまったのでしょうか、用足しの道具なんでしょう。そんなものを書いてノーベル賞を狙っているのがいたら言葉を侮辱している最低の小説家だと言えますね。
私は詩が必ず復活すると考えています。まだ予感すらないものかもしれませんが、私は復活します。甘い夢見心地のするポエジーというものではなく、人間存在をシビアに映し出すような、厳しくも美しい言葉が復活するだろうと思っています。