嘘について考えてみました
嘘は、いい嘘とよくない嘘があるとみたら少しは救いがあるかもしれません。ファンタジーも同じだし、魔術も白魔術と黒魔術という具合に分けられています。
ただ西洋の文化思想の中なのでいつも白黒ですが。
いい嘘によって文化が栄えたのです。小説は嘘です。詩も演劇も嘘です。科学も前提がある限り嘘のようなものです。仮説も嘘です、思想も哲学も言うなれば嘘からでいます。
ところが、よくない嘘が平気な顔して罷り通る世の中になると、たいてい権力の道具になります。権力者たちは人を誤魔化す嘘が大好きです。独裁政治の誕生です。イデオロギーがなんであれ、表面のコーティングがちがうだけでたどり着くところは同じ権力の独裁ですから、一握りの人間だけが幸せになるという貧しい世界です。
みんなで嘘を撲滅しようと頑張るのは意味のないことです。嘘がなくなったとします。もちろんそんな簡単ではないですが、そうした社会を想像してみると、正直者、義の人ばかりが集まる立派な社会に見えますが、現実にはどうでしょうか。誰か賢い人が完璧な嘘撲滅機を発明して、撲滅に一役買ったとしても、人間社会にから嘘は消えないでしょう。磯撲滅機の登場で懸念するのは、この機械が頑張りすぎると、人間までいなくなってしまうのではないかということです。
さて嘘は撲滅できないとなると、次の手はなんでしょうか。共存ということらしいのですが、何が共存なのでしょう。妥協点があるとでもいうのでしょうか。今までも表面的には共存でしたから、今まで通りやっていればいいのでしょうが、今現在権力と結託した嘘は飽和状態なのでこれ以上増えるのは地球にとってよくないです。それにその手の嘘にはもう飽きました。
いい嘘にはユーモアが感じられます。しかしよくない、権力の道具に成り下がった嘘には全然ユーモアがなく干からびていてつまらないです。
嘘の反対は正直とか赤心とか本当とかではないですね。真実とか、誠とかいうのも、飾り的には面白いですが、退避させても嘘がなんなのかは見えてこないです。本当といったり、真実と主張しするところにも嘘の匂いがぷんぷんしています。そっちの嘘は綺麗事を装っているだけ醜いです。
最後に気になる嘘のことを書きます。それは声のことです。
西洋音楽の中で歌うときには、ベルカント、美しく歌う、という唱法が使われます。この声は無理やり作られた、楽器として使われる声といっていいものです。つまり作り声です。
この声は1830年頃にマッチョなテノール、英雄的なテノールとして生まれた声で、それ以前の発声とは違うものです。朗々と歌う新しい時代のオペラに重宝されました。
もちろん声である限り人間の生命力の一部なのですが、意図的に作られ、それが前面に押し出されていて、よく響くことばかりが工夫されているので大ホールでのコンサート、オペラにはうってつけの声ということになります。
このベルカントの声、作り声ですから長く聞いていると疲れてきます。オペラには向くのかもしれませんが、歌曲で心を歌う時にはあまりに人工的すぎて、表現の道具に成り果てたとしか思えない誇張した声なのです。
人間の存在が響く以上に、演じているわけで、見栄えがいい声ということで、それ以上のものではありません。
人間、存在が響く時、声は朗々と歌わずに静かに語ります。