俳句のことを書いてみます
俳句が俳句たる所以は何かと考えてみました。
それはユーモアを置いて他にないだろうと確信しています。
俳句は現実を非現実化する遊びです。言葉による遊びですが、これだけ言葉が少ないと、言葉以上のもの、つまり言葉にできない物の役割が大きくなります。
非現実は現実離れしているというのではなく、現実を超えているという意味ですから超現実が正しい言い方かもしれません。現実から超現実へ、これが俳句の根底にあり、ユーモアがそれを支えています。
哲学的に整理して理屈でまとめても俳句ほど的を得たことは言えないと思うことが多いです。物の本質は直感でしか語れないからだと思います。哲学の結論は大体ぼやけています。哲学や、思想の人たちは、説明が主体です。ところが説明では何も存在を説明していないということがまだわかっていないので説明の空回りに時間を費やしているというわけです。
俳人、そして詩人という人たちは現実を鋭く見つめている人たちです。ですから、現実を鋭く切ることができ、そこからバネをもらって現実を超えたところで遊べるのです。
まるでユーモアという海の中を泳いでいるようです。
遊びはユーモアの見える姿だといっていい物です。遊ぶ姿のなかにユーモアは生きています。言葉で遊ぶのは勇気のいることです。言葉は正確であるべきで、真面目な物だからです。その重たさを克服して無重力に近い中で遊ぶのです。だから直感が生きていて本質を見抜けるのです。存在と出会えるのです。現実を説明したら現実からどんどん遠ざかって機能の説明におわつてしまいます。それでは説明する人の迷路にはまってしまいます。
いつもしつこく繰り返していますが、俳句は季節に縛られています。ここが大事です。季節を表す季語で制約されているからいいのです。そうでなかったら糸が切れたタコのようなもので、どこを飛んでいるのかわからなくなってしまいます。季節は時間的現実なので、それを無視すると抽象的な思いつきを綴るだけのことになってしまい、俳句ではなくなってしまいます。
ここで問題なのは西洋的な考え方に染まっている人たちです。彼らも俳句を詠んでいると思っています。もちろん彼らの俳句は説明が主になってしまいます。説明できたら満足できるのでそこを強調しますが、それは自己満足の域を出ない抽象的な空想で、地に足がついていない空虚な世界です。それはユーモアの海を泳ぐ俳句精神とは全く別物の、重力にひきづられた説明の僕です。
日本の言葉、日本人の歌心は俳句まで来てしまったのです。もしかしたら言葉がなくなる手前まで来てしまったのかもしれません。だとしたらもう一歩です。人間は嘘がこびりついた言葉から解放されるのでしょうか。