仕えるということ。イエスの足洗い。
民主主義の時代に、「誰かに仕える」というのは非民主主義と言われるに違いありません。昔の、王様がいてそれに仕えるというイメージが強いですから、非近代的だということにもなるでしょう。
ノーベル賞作家のカズオ・イシグロさんの「日の名残」という作品は、イギリスの裕福層に今でも残っている執事制度から題材をとっています。執事のスティーブンスをめぐる話です。徹頭徹尾ご主人様にお使えする仕事の様子、プライベートな生活をテーマにしているもので、こういうものを許す社会があったのだと気が遠くなる思いでこの本を読み終えました。英語で読んでいる時には、そこに出てくる普段は聞くことのない言い回しに初めは面くらい諦めかけました。英語の難易度は相当高いと思います。かつて通訳をやっていた方と一緒に読んだのでなんとか終わりまでたどり着きましたが、独力では一ページあたりでで挫折していたと思います。慣れるまでが大変でしたが、慣れると面白くなり、英語という言葉の力、奥ゆかしさというのか、礼儀正しさを言葉にできる能力に何度も驚かされました。この本のドイツ語訳を読むと文化の違いがあからさまで非常に面白いです。
執事という職業は、どうみても奴隷制度の名残りのような気がしてなりません。社会的にこのような制度を残すのにはどうかと思っています。スペインのマドリッドで講演会を主宰してくださった方の中に執事を雇っている家族があって、マドリットではそこに寝泊まりしていたのですが、東南アジアから来ていたそこの執事を見るのがなんとも心苦しいものでした。
「仕える」というのは何も執事に限ったことではありません。この姿勢は、制度として義務付けられることがない場合は非常に高貴さを感じています。
思い切って自分に仕えるというのはどうでしょう。自分が自分のご主人様というわけです。
自分自身とはなんなのでしょう。例えば自意識とは。まずは自分を観察しなければなりません。観察して自分とはこんな人間だと判断します。自己診断のようなものです。自分を診断する時は自分と距離を置いて観察しているわけです。確かに近代的な自分との向き合い方です。
ここで思い切って、自分自身に仕えるように向き合ってみてはどうなるのでしょう。これは奴隷制度の名残りでもなんでもない、誰からも命じられていないので、自由意志でするのですから、民主主義にも違反しないものです。
来週はキリスト教の世界では復活祭という、クリスマスよりも深い意味があるお祭りがあります。イエスが磔になって死んだのちに復活したということを祝うお祭りです。
イエスが磔になる前のことでは最後の晩餐が有名ですが、その最後の晩餐の前にイエスは弟子達の足を洗ったということが聖書には記されています。主のお御足を弟子達が洗うのではなく、主が弟子達の足を洗うのです。そして洗い終わった後に「お前たちも私がしたようにしなさい」と言います。
弟子の足を洗うのですから、普通の師弟関係とは全く逆のことをしているのです。イエスは何を考えていたのでしょう。そしてなぜ弟子達に「同じことをしないと」と言ったのでしょう。
あるキリスト教系の幼稚園で働いている先生が子ども達の足を洗ったのだそうです。そしてそこで聖書の話をしたのですが、その話を子ども達は子どもなりに理解しながら、「僕は昨日お父さんの手伝いをした」「私もお母さんの台所を手伝った」と子どもたちの方から言い始めたそうです。しかも手伝ったことを誇りに思いながら嬉しそうだったということです。先生は「とてもいいものを見た」と感動しておられました。子どもには仕えることの意味はわからないですが、自分以外の人のために何かをすることに喜びを感じる気持ちはあるのだと、その話を聞きながら思いました。社会がそれを引き出せばいいのです。