中心点と円周
中心点を決めて、その点を半径として円を描いてみてください。こんなシンブルな図形は他に見ることはないでしょう。でもこのシンプルさの中に世界の全てが、宇宙の全てが納められていると思っています。宇宙の中の自分、そしふ神の中の自分がです。
シュタイナーが教育の本質を伝えようとしたとき、治癒教育講座の講演の中での話です、教育者が朝と夜、メディテーションをするように薦めています。そこで使われたものも、この図形を言語化したものでした。朝は「私は神様の中にいる」、夜は「私の中に神様がいる」となります。
神様と私は二つで一つの不思議な関係です。この二つを一つにする力、意識、エネルギーはどこにあるのでしょう。シュタイナーはこの力こそが、この意識こそが教育者に必要なものだと感じていたのだと思います。
そして、私たちがシュタイナーを持って理解できるようになると、ここにシユタイナーが考えていた教育の本質を読み取ることもできるはずなのです。
ただまたまだ自分に拘っているうちはまだまだ遠いい話ですが。
「我思う故に我あり」はヨーロッパを代表する考え方です。
私は個人的に、私という存在、ここでは我ですが、それが思考の目的になるというのは片手落ちだと考えています。自己満足を出ないもののように思うからです。自分が居るかどうかを問うのが西洋の基本なので、この箴言は今日まで生き続けました。
東洋的に見ると、特に日本的には、私という存在、我は、存在させられている、存在させて頂いているとなります。神様によって存在させられているということです。お陰様ということです。
ある仕事についているとき、仕事をさせていただいております、という言い方をしますが、これは西洋的には考えられないことです。「私はある会社のマネージャーをしている」、「うまくやっている」、「業績が私の時に飛躍的に伸びた」とは言いますか、「マネージャーをさせて頂いております」なんてなんて口が曲がっても言わないです。この発想がないので言葉にしようがないのです。苦労してなんとか通じるように訳せても聞く方がちんぷんかんぷんで通じないと思います。
この違い、相当基本的なことだと思っています。
日本人の「させていただいております」はヨーロッパの言葉に訳すことができない言い回しです。「させて頂いております」という発想は、一見すると受け身ですが、単なる受け身ではなありません。ただの受け身だったら、「させられている」となります。これはヨーロッパの言葉に訳せます。しかしその先は無理です。絶望的です。ただの受け身ではないからです。
ではなんなのでしょう。
ここには神とともにいるという意識が働いているのではないのでしょうか。神と自分、人間との関係がともにいるという意識だからです。神と自分は別々のものではないという基本です。元々は一つで、いつかまた一つになるものといったらいいのかもしれませ。
日本的に言うと、あるいは昨日の続きで縄文的に言うと神と人間は宗教的に契約で結ばれているのではないのです。宗教以前があるといったらいいのかもしれません。
西洋社会は隅々まで契約で成り立っている社会です。政治は基本と的には契約を元に成立しているものです。新しい大統領になったり、新しい政府になっても基本は同じで、新しい契約を結ぶだけの話しです。このような契約社会のあり方が日本人にはとても苦手で、政治的に見ればいつもすったもんだを繰り返しています。特に外交問題では苦手が丸出しです。これは永遠に続く問題かもしれません。あるいは世界に精神的大革命が起きて、契約ではない関係に気づくことになれば、日本的な考え方も生きやすくなるのかもしれません。ドイツに長く生活していると、そんなことがちょくちょく頭の中を駆け巡るのです。
中心点と円周は円周が中心点になり中心点が円周になるという繰り返しをしていることです。中心点がいつも中心点で居座るのではなく、交互に交代するのが、シュタイナーのメディテーションの味噌です。
習うより慣れろの世界です。
私は神様の中にいる。
私の中に神様がいる。
私は神様の中にいる。
私の中に神様がいる。
繰り返しているうちに少しは本来の意味に近づけるかもしれません。