ライアーとアルペジオ
アルペジオという言葉はハープのようにということです。イタリア語でハープはアルパなのでアルパのように、アルペジオとなります。
だとすれば、ライアーがアルペジオを得意としていることはすぐに了解していただけると思います。
ということで、今アルペジオのいい曲を探しています。
しかも音楽の流れがそれだけで曲になっていないものを探しています。
このことをピアノを弾く友人に話したら、ブルクミュラーの練習曲の「天使の合唱」を勧められましたが、アルペジオがメロディーになりたがっているように思えて弾きたいとは思いませんでした。
アルペジオはアルペジオでいて欲しいのです。曲のオーラのようなものであって欲しいのです。そして、そのオーラのようなものをライアーで弾いてみたいのです。
バッハの平均律曲集の一番、ハ長調の前奏曲は気に入っているのでよく弾いていますが、チェロの無伴奏のソナタの前奏曲もアルペジオのようなものですが、充実感からすると物足りないところがあります。というのか曲になりすぎているのです。曲以前というのが弾きたいのです。あるいは曲になろうとしていると言ったらいいのかもしれません。
私はクラシックギターを弾いていましたから、ギター曲の中にも弾いてみたらいいかもしれないというのがいくつかあります。まだ本格的に編曲作業には入っていません。その一つはカステルヌォーボ・テデスコというイタリアの作曲家が、スペインのノーベル賞作家、ヒメネスの「プラテロと私」という詩集の朗読伴奏に作曲したものです。それをセゴビアが絶妙な雰囲気を醸し出しながら弾いているのをきいて、これをいつかライアーでできたらと昔から考えていました。そもそもは伴奏のためのものなのですが、セゴビアが弾くと、まるでソロの演奏用に作曲されたもののように聞こえます。自由奔放にギターの世界を飛び回っています。飛行機で飛んでいるというより、私には空飛ぶ円盤のようで、瞬時に別の世界に飛び回るセゴビアの演奏は、この世のものとは思えないのです。
ところが基本的にはセゴビアは彼がよく口にする「弾きすぎない」という精神に貫かれた節度のある演奏を披露しています。しかしそれが逆に演奏を引き立てる魔法となって私たちを魅了します。他のギターリストが弾いたものもYouTubeにアップされていますが、いずれもホゾを噛むような演奏で、今更ながらセゴビアという演奏家の偉大さを思い知らされます。
「弾きすぎない」という精神はギターだけのことではなく、演奏全てに言えることで、特に今日の技術の際立った若い演奏家たちには心して欲しい言葉です。演奏技術は進化していますが、進化しているのは物質的・音響的な部分で、音楽の精神性はそんな風には進化しません。「弾きすぎない」という徹底した謙虚さに気づくことが精神性の進化だからです。
アルペジオからとんでもないところにきてしまいました。
アルペジオはメロディーにはならないところが味噌です。せいぜい暗示するところで止まっています。それが魅力です。初めのところでブルクミュラー天使の合唱に触れましたが、アルペジオでメロディーを作ってしまつてはつまらないものになってしまうと思います。また和音を分散しても退屈なものです。ワクワクするようなアルペジオに出会いたいものです。