坂本繁二郎とホドラー
坂本繁二郎の展覧会に友人と行ったのは、今思い出すと坂本繁二郎が亡くなってすぐの時だったようです。上野でした。
友人に誘われるまで坂本繁二郎のことは知りませんでした。まだ二十歳そこそこの生意気盛りの時だったので、会場に入って目に飛び込んでくる絵に初めは戸惑っていたことを覚えています。ぼんやりとしていて、輪郭のない絵に正直驚いていました。
偶然というには少しできすぎている話ですが、坂本繁二郎の生まれた福岡の久留米に私の友人が住んでいて、彼を尋ねた時、部屋飾られていた能面に見惚れていたら、「仲さん、能面好きですか」と聞かれ、すかさず「ええ」と答えたら、箪笥の引き出しからいくつかの能面を出してきて、「これは父が趣味で作ったものです、気に入ったのを持っていってください」と言いながら、テーブルの上に並べ他のです。食い入るように眺めていました。素人の作ったものとは思えない見事な能面でした。ただ眺めるというのではなく、その中から好きなのを選んでいいということで、思いのほか真剣に能面と向かい合っていました。
その時頂いた三つの能面を先日部屋にかけた時、坂本繁二郎の能面の絵を思い出していました。両方が久留米という土地で繋がっていたこともなんだか嬉し買ったのです。坂本繁二郎の描いた能面は淡い微かなものなのですが、ずっと心の中で生き続けるような絵です。
あの時展覧会の会場で「放牧三馬」の前に立った時、静けさ、無重力感、透明感が私の体を貫きました。絵は鑑賞するものという、生意気盛りに、理屈抜きで絵が、三頭の馬が私の体を通り抜けていったのです。初めての体験でしたから、正直その時はその体験を持て余していました。
その後も坂本繁二郎の絵を繰り返し見ましたが、彼の絵のもつ無重力感に救われる想いが何度あったことか。絵というのは描かれたものの重量感を克服したて時、描いたものの存在感が伝えられるのかもしれません。
今から四十年前、スイスで勉強していた時、スイスの画家ホドラーの展覧会がありました。スイスの画家とはいえ、滅多に見られない絵が出展されるという大きな催しで、何人かで連れ立って行きました。
彼は晩年ジュネーブ湖の湖畔に住んでいたのでそこから見えるモンブランの山を描いた絵がいくつかあり、まずはそれらが目に止まりました。普段峰ヨーロッパの山の絵とは違うもので、見ていると力が抜けてゆくのです。続けていくつかの山の絵の前で立ち止まっていると、気持ちの良い無重力状態が心の中に感じられるのです。その時、一瞬ですが坂本繁二郎が頭を掠めました。しかしホドラーは油絵で描いていますから、質感は比べようがないのですが、ホドラーの山の絵からは確かにあの透明感と無重力感が伝わってくるのです。
スイス人としてスイスの山を愛することがどういうものなのかが伝わってきたんだと思います。山の存在感というのでしょうが、それが見事に無重力なのです。
ものの存在と無重力。なんだか矛盾するようですが、じっ際には無重力、透明感の中で存在感というのは感じられるもののようです。