考えることと感謝すること
考えると言うのは人間特有のことで、上野の近代美術館のシンボルにもなっているロダンの「考える人」はおおくの人が共感を持っている彫刻です。
「人間は考える葦である」というパスカルの言葉とか、「我思う故に我あり」というデカルトの言葉も人間であることの重みを感じさせてくれます。
考えるから人間なんです。
いつも不思議に思うのですが、日本の文化の中では考えると言うことをあまり取り上げません。考えていない訳はないと思いますが、考えていることをあまり取りざたしないのです。
先日私が属している、シュタイナーの思想から現代社会を見る「時事の会」に出席して、哲学的な話し合いを思う存分してきました。そこで突然思いついたことがあります。考えると言うのは実は感謝すると言うことと表裏一体をなしているものなんだと言うことでした。
英語とかドイツ語とかを見ていると、考えると感謝するとが同じ語源であることは解ります。考えるは英語ではthink、感謝するはthank、ドイツ語だと考えるはdenken、 感謝するはdankenです。ところがそれ以上は見えて来ませんからいつも行き詰まっていました。
その謎が解けた様な一瞬でした。
感謝すると言うのは日常生活でもよく見かけます。しかしたいていは儀礼的です。
究極の感謝は人間が最後の別れをする時だと思います。
死んで行く時、同時に死んで行く人を見送る時、感謝の気持ちが最高に達しています。
人間が死を意識する時、そこから感謝の気持ちが生まれると言うことです。
人生の中で、若い頃には感謝の気持ちなんて少ししか持ちあせていないものです。
年を取って、あるところから死を意識するようになって、そこで初めて感謝が生きている人間を捉えます。
自分もいつか死ぬんだと言う意識と、感謝の気持ちとは同時進行します。
若い頃は人生をがつがつ、貪欲に生きています。物質的です。物欲に振り回されています。
そんな時には感謝なんて関係ないのです。
逆に感謝が無いと言うのは、よく言えば若いと言う証拠です。悪く言うとまだ餓鬼だと言うことです。幼いのです。未熟なのです。
自分もいつか死ぬんだ、という意識は突然舞い降りて来ます。若い時にはないのです。若い人にはないのです。幼い人にはないのです。その人たちは、前向きといえば前向きに人生を謳歌しています。自分がどう生きようか一生懸命考えています。どうしたら儲けられるか、どうしたら人を上手く利用できるかという様な事を一生懸命考えるものです。
それがある時に、突然「自分も死ぬんだ」ということが脳裏をかすめます。
人生の大転機です。
人間みんなの中にいつかは生まれる意識ですが、それを本気で受け入れるかどうかは別のことです。たいていは死を避けて通ります。ということは感謝も避けていると言うことです。
感謝の心に目覚めた人は、物欲的なものから解き放たれて、同時に考えると言うことにも変化が生まれます。 もう物欲的に考えなくなるのです。それよりも生きていることに感謝する気持ちが強くなります。9.11の時、ビルの中にいた人が、もしかしたら命が危ないかもしれないと思った瞬間に、家族に、恋人に、友人に一斉に携帯で電話したと聞いています。そしてそこで言われた言葉は「I love you」でした。これは英語の教科書の様に「わたしはあなたを愛します」ではなく「あなたに感謝しています」という意味合いの強いものです。最高の感謝の気持ちを込めて「I love tou」といったのです。
今の時代、医学は死を逃れる方法を一生懸命考えています。
医者という人はもしかしたら、みんなではないでしょうが、相当物質的な意識で生きている人たちのことではないのでしょうか。死を受け入れることから一番遠いい人の様な気がします。
死を、自分はいつか死ぬんだと言うことを受け入れた人にしか感謝は生まれないのです。あるいは死を生きながらにして体験した人、そこには感謝は生まれます。
考えると言うのは生きること、前向きにがつがつ生きところで生きています。
感謝は死を受け入れるところから始まります。